〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 4

2018-05-03 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
私たちにとっての本書の意義

 日本人にとっての本書の意義を考えるにあたり、解説として奇妙にもまるで意味をなしていない巻末の「訳者解説」に注目したい。詳しくは述べるまでもない。かつて本書を批判した丸山眞男の視点を奉じて(それ自体が忠誠―献身の「中心価値」の表明となっているのは何とも皮肉である)ヴェーバーの概念の「誤用」を論い、結局自説の宣伝に終わるその文章は、著者の示している洞察に対し、なんと小さく、なんと死んでいることか。なお、訳者は六〇年代の最初の本書の邦訳にも携わっている。適切な理解者・紹介者を得られなかったことは、本書ばかりか日本人にとっても不幸であった。
 そうした些事はこれ以上省くとして、なぜこれに注目すべきかと言えば、その文章を形成している背景的文脈が、日本の知識人が本書の意義を理解しえなかった事情を非常にわかりやすい形で物語っているからである。いわば「木を見て森を見ず」の譬えのとおり、これまで日本人は、森の中で自分の先入観に適う木だけを探し出し、そこから自分の見たい「自分たちの森」を描いてきたのだと思われてならない。それは例えばこの訳者の文章に典型的に見られる、不可解なほどの「矮小な日本」像である。それは、ライフイベントにおける強いインパクトによって認知が病理的に歪み、自己認識が極度に主観的となってしまう人間的不幸とよく似ている。滅亡の淵で地獄を見、歴史上初の占領を経験し、その過程で言論統制=思想的コントロール、いわば「洗脳」を施された日本人の集合的自己認識が、極度にネガティブなものに偏向したとしても不思議はない。その事情は、後の世代として理解したいと思う。
 それに対し、外から遠く森全体を眺め渡し、日本人の性格を巨視的に読み取ろうとしたのが本書である。その試みが、後述する限界を含みつつも成功しているのは、いわば人が自身の性格や行動の特性、特に病理を客観的に見ることは難しく、むしろ他者からの観察のほうが客観的で、その意味で正しいのに似ている。たとえ第三者の視点で、外から大まかに眺めざるを得ないという限界はあったとしても、だからこそ本書は「日本宗教の倫理と近代日本の精神」の輪郭を正確に掴み取り、適切な全体像を描き得たのだと思われる。
 先の書評と関連して言えば、本書では鬼頭宏氏の『文明としての江戸システム』に欠如していた、日本人の集合的内面の基本構造への洞察が明示されている。江戸時代中後期の目覚ましい「勤勉革命」を鬼頭氏は精緻に語っていたが、しかしその動因については「日本においては、勤勉のエートスを支えたのは宗教ではなかったであろう」と、現行の資本主義社会に支配的な価値観そのままに、不思議なほど無批判・無前提に語っていた。それは実際には肝心の歴史の動因について何も語っていないに等しいものであった。


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