(承前)
「忠誠」「無私」「献身」――いずれも戦後意味が反転し、「封建的」と白眼視され、時代錯誤として冷笑の対象にすらなってきた言葉であり、現代日本人にとってはすでに意味を失った実質的な死語にほかならない。そのように「忠義」や「孝行」、「恩」や「報恩」等々、一見してなんと大時代的だろうと思われる言葉が、学問的な研究対象としてごく真面目に論じられている。ここで読者は、そうした言葉にまつわる負の意味づけないし無価値化の前に遡り、著者の真意を読み取る必要がある。ここで扱われているのは、過去の日本人がそれに従って生を全うし死んだ額面通りの価値であり、特に江戸時代に到って人々の心の中心を占め、その行動を動機づけて職業生活を合理化し、近代化に直接に結び付くこととなった時代精神を現す言葉そのものである。著者であれば、そうした民族共同体としての中心価値を担った言葉が、私たち日本人の心の中で無価値で死んだものとなっているというその実感こそ、ルーツとの断絶、競争力の源泉の喪失、さらには民族的な深層崩壊の兆候の、明らかな証拠であると指摘したに違いない。
その中心価値がもたらした「力」を、本書はあくまで中立の視点で扱っており、それはナショナリズムとして近代国家成立の主たる推進力となったが、同時に日本を帝国主義的拡張に駆り立て、軍事的膨張に転じさせた力でもあったとしている。本書は触れていないが、かつて称揚され戦後一転して忌避され危険視された「大和魂」なる言葉が現す内実とは、ここに社会学の方法で抽出された徳川時代の「セントラル・バリュー・システム」と間違いなく一致する。またそれは、揺らぐ「愛国心」や「天皇・皇室」の存在意義という問題のまさに核心を成すものでもある。
私たちの心の深い領域には、いわゆる戦後教育によって、「忠義」や「孝行」、「報恩」や「服従」、そして特に「国体」や「大和魂」などといった言葉に触れた途端に、強い抵抗感が作動するような条件付けが埋め込まれている。いわば、中心価値への強度の「国民的アレルギー反応」とでも言えよう。ここに、過去に確かに存在したという中心価値を正当に扱うことの難しさがある。しかしそれらの言葉に染み付いたネガティブな意味づけを相対化し、例えばあの凄惨極まる「特攻」も「玉砕」も、災禍をまき散らした「軍国主義」も「侵略」も、あたかも幾世紀か前に滅びた異文明の歴史的事件だと仮想して心理的に距離を置いて見れば、日本の近代史に「忠誠」と「献身」の中心価値体系が存在していたのは明らかな事実というほかない。徳川時代の倫理を近代化論のケース・スタディとして探究した著者の目を借りることで、近代日本を打ち立てた中心価値体系とは一体何で、それはどこから来たものか、目をそむけることなく冷静に見ることができる。今や私たちの内からそうした価値のシステムがはっきりと消滅したからこそ、逆にはじめて、著者が行ったように第三者の視点からその存在を認識し、その意義を正当に評価できるのである。
「忠誠」「無私」「献身」――いずれも戦後意味が反転し、「封建的」と白眼視され、時代錯誤として冷笑の対象にすらなってきた言葉であり、現代日本人にとってはすでに意味を失った実質的な死語にほかならない。そのように「忠義」や「孝行」、「恩」や「報恩」等々、一見してなんと大時代的だろうと思われる言葉が、学問的な研究対象としてごく真面目に論じられている。ここで読者は、そうした言葉にまつわる負の意味づけないし無価値化の前に遡り、著者の真意を読み取る必要がある。ここで扱われているのは、過去の日本人がそれに従って生を全うし死んだ額面通りの価値であり、特に江戸時代に到って人々の心の中心を占め、その行動を動機づけて職業生活を合理化し、近代化に直接に結び付くこととなった時代精神を現す言葉そのものである。著者であれば、そうした民族共同体としての中心価値を担った言葉が、私たち日本人の心の中で無価値で死んだものとなっているというその実感こそ、ルーツとの断絶、競争力の源泉の喪失、さらには民族的な深層崩壊の兆候の、明らかな証拠であると指摘したに違いない。
その中心価値がもたらした「力」を、本書はあくまで中立の視点で扱っており、それはナショナリズムとして近代国家成立の主たる推進力となったが、同時に日本を帝国主義的拡張に駆り立て、軍事的膨張に転じさせた力でもあったとしている。本書は触れていないが、かつて称揚され戦後一転して忌避され危険視された「大和魂」なる言葉が現す内実とは、ここに社会学の方法で抽出された徳川時代の「セントラル・バリュー・システム」と間違いなく一致する。またそれは、揺らぐ「愛国心」や「天皇・皇室」の存在意義という問題のまさに核心を成すものでもある。
私たちの心の深い領域には、いわゆる戦後教育によって、「忠義」や「孝行」、「報恩」や「服従」、そして特に「国体」や「大和魂」などといった言葉に触れた途端に、強い抵抗感が作動するような条件付けが埋め込まれている。いわば、中心価値への強度の「国民的アレルギー反応」とでも言えよう。ここに、過去に確かに存在したという中心価値を正当に扱うことの難しさがある。しかしそれらの言葉に染み付いたネガティブな意味づけを相対化し、例えばあの凄惨極まる「特攻」も「玉砕」も、災禍をまき散らした「軍国主義」も「侵略」も、あたかも幾世紀か前に滅びた異文明の歴史的事件だと仮想して心理的に距離を置いて見れば、日本の近代史に「忠誠」と「献身」の中心価値体系が存在していたのは明らかな事実というほかない。徳川時代の倫理を近代化論のケース・スタディとして探究した著者の目を借りることで、近代日本を打ち立てた中心価値体系とは一体何で、それはどこから来たものか、目をそむけることなく冷静に見ることができる。今や私たちの内からそうした価値のシステムがはっきりと消滅したからこそ、逆にはじめて、著者が行ったように第三者の視点からその存在を認識し、その意義を正当に評価できるのである。
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