きのう、休暇を利用して、話題になっているという映画「男たちの大和/YAMATO」を観に行った。評判と期待に違わぬ、日本にはめずらしい気合いの入った戦争映画だった。
またこの戦艦の戦いとそれにまつわる人間ドラマを、過剰な脚色や美化をなるべく排除し、当時の時代に雰囲気に誠実であろうとする視点で描いていた感じで好感がもてた。
現代の場面が意外に多く、(たぶん予算的な制約か)そのために肝心の艦内の様子や戦闘シーンの場面の時間が少なかったり、「大和」全景や戦闘で使われるCGがいかにも作り物っぽかったりしたのは残念だったが、この際そういうマニア的な視点は置いておこう。
また個人的な思いというか偏見としては、キャストの問題がどうも目についてしょうがなかったこともこだわるまい。
ただ一言いうなら、物語のキーパーソンで一途な熱血漢・正義漢でありながら平和主義という役どころの内田が、中村獅童の凶悪(どう見ても悪人面だと思うのだが)な面相のためにどうしても浮いて見えてしまったのは残念だ。違う、あれはもっとどっしりとした人情味を感じさせるような役者じゃなきゃいかんのだ。
また、確実な死を意味する任務に就いて苦悩し混乱する兵卒から士官を精神的に束ねる人物である大尉役の長嶋一茂は、あきらかに役者不足(ていうか役者じゃないじゃん)だった。彼の出演するところは物語のテーマを締める大事な場面なのだが、そこで必要なはずの熱い心情と静かな諦念がまったく表現できておらず、重要なセリフを棒読みしてしまっているからだ。あそこはぜひまっとうな役者を起用して欲しかった。
いっぽう、「大和」の烹炊班長役の反町はとてもかっこよかった。彼がよく似合う黒の制服で、窓の外を見て「散る桜も残る桜も…」というシーン、男だったら、日本人だったら涙しなくてはならん!
また現代場面での、内田の娘役・鈴木京香もその父への思いが伝わってくる感じでよかったし、なにより少年兵役をつとめる現代っ子であるはずの俳優たちが、一途な思いが伝わってくる熱い演技をしていて、爽やかでよかった。
さて、前に書いたように、映画に現わされた大和はたしかにかっこいい。
戦時シーンの冒頭、「大和」に乗り込む少年たちがその威容に度肝を抜かれ、最後の方でベテランの兵曹たちが「この艦は世界一美しいと思った。大和に乗っているのが誇りだった」と回顧したりしているのは、実際の当事者たちの気持ちをよく表していたのではないかと思う。
帝国海軍の象徴にして空前絶後の巨大戦艦、これがある限り負けるはずがない、という思いを抱かせるに十分だったのではないか。
また軍装姿の士官・下士官のしゃきっとした凛々しい所作や、規律に満ちた艦隊勤務の様子が、日頃ダラダラ生活している身には、かえって新鮮に思えてしまう。
「大和」を一個の巨大な戦闘機械として機能させるという、ただそのひとつの目的のためだけに奉仕する組織とその中での息詰まるような生活、その緊張感のリアルな演出があったからこそ、ドラマが光って見えたのだと思う。
もちろん狭い艦内に集団で密閉されてつねに急げ急げとせかされ、下士官からの精神棒や鉄拳の制裁に怯えるようなそんな艦内生活は、精神的に軟弱・弱腰になった現代の自分のような者には、一時間ともたないような厳しいものに違いない。それに較べたらちょっと体育会系の今の職場なんて50倍マシだと思われた。「大和」は、ナチの強制収容所の次くらいに絶対勤務したくない職場だ。
それに関わって、艦での勤務や激烈な戦闘、肉親との悲しい別れや、戦時下で次々に男たちが召集されていく銃後の苦しい生活に、当時の人々が舐めた辛酸がどのようなものか、片端でもわかった気がする。それはじつに心の奥底に刻み込まれるような強烈な体験だったと思う。
もちろん戦争はあってはならないことだし、ぼくらはそんなことが二度と起こらないよう批判精神を忘れてはならないだろう。
しかし、その渦中にあった人々の懸命の行動を安易に非難することはできないと思った。
とりわけ飽食というほどメシを食べ、集団に守られながら集団への果たすべき義務を忘れて、何を発言しようと安全圏にいる、自分たちのような柔弱な世代には。
ところで映画に表された、日本のため、家族のため、艦の仲間のために、一身を捨てることを省みない、少年兵をはじめとするそれらの人びとの一途さ、熱さ、真剣さは、生き方としてやはり爽やかで清潔に感じられてしまう。
もちろん、個々に死ぬのは怖かったり、親しいものへの未練があるものとしてドラマは描いているが、それを超える大切なもののために死ぬことには意義があると思っていた当時の軍人・兵士の心情が、それぞれの迫真の演技で描かれていたと思う。
そんな“死を賭す”心情・気合とは、おそらく映画に描かれていたようなものだったのではないだろうか。
もちろん映画の描写でどこまでも作り物ではあるが、当時のいわば時代精神の描き方として、あながち間違いとは思われない。戦争体験者やその精神性をいくらか継いでいる世代から、実際にそんなふうな気合を感じることがあるからだ。
それを現代の視点から時代的な限界といって批判することはいくらだってできるだろうし、もちろん当時だって人によってさまざまな温度差があった感情であるには違いないが、総じて当時の国民はそういう本気の思いを抱いていたといっていいのではないかと思う。
それがなければ、そもそもこの映画が題材にした「大和」の沖縄特攻作戦などというものは成立しなかっただろう。そういった強い心情がなければ任務のために死ぬことなど受容できるはずもないと思われてならない。
軍令部から特攻作戦を下達される場面にあるとおり、その作戦の無謀さと非合理性を徹底的に衝くこともできたと思われるのだ。しかし司令官役の渡徹也がいう「死に場所を得た」の一言で場の雰囲気は決する。
特攻というのは命令による外的な強制だけではできない行動に違いないという気がする。そうではないだろうか?
死地に赴くにはそれを納得した上での内発性がなければならないはずだ。
映画を観た多くの人が、とりわけ死を覚悟してなお爽やかに笑っていることのできる登場人物の姿に感動したという。肉親を捨て、妻を・恋人を捨て、それらの人のために自分を捨て去った彼らのいさぎよさは、やはり誰の目にも純粋で美しいものとして映るようだ。
人の心というのはそういうタイプの死を、よいもの、真なるもの、美しいものと感じるようにできているのだろうか。
しかしながら、そういうふうに美しい心情をもっていると描かれた兵士たちの、実際の死のきわめてリアルな描写は、じつに悲惨の一言というほかない。
対空機銃座に配置された主人公たちは、敵機の爆撃と機銃掃射にもろに曝され、文字通り血の雨の降る中で必死の反撃を試みるが、猛訓練の成果も、熱くぶつかり合った仲間たちも、圧倒的な火力の前に無力にあっという間になぎ倒されてしまう。
そして「大和」は、ほとんど有効な戦果を挙げ得ないまま、多くの将兵を道連れに爆沈して果てる。
この映画の戦闘場面の描写は、どんな英雄的行為も成立しえないような近代戦の無情さということを、美化も誇張もなく表現をしていると思われた。
圧倒的な物量差を前にした戦闘とは、このような一方的で酸鼻をきわめるものであったに違いない。そしてそれはさきの戦争の陸・海にわたる全戦線で起こった事態なのだ。
映画を見た者を深く混乱した気持ちにさせるのは、(たぶん正当に)美しく気高く描写された戦う男たちの精神性と、その死のあまりのあっけなさ・軽さ・無力さの実態との間にある、大きな落差だろう。
また、そのことはこの艦の運命についても言えることだ。
「大和」はたしかに海軍の象徴だった。
その巨大な威容と、反面の無力かつ無意味な特攻における“死”は、戦争初期の戦果に奢りやがて米軍に圧倒され消滅していく日本海軍の歴史を凝縮したものだったのだ。
そしてやはり、艦隊特攻というある意味での精神的な壮挙と、一方での限りなくゼロに近い戦果・壊滅的な敗北というあまりの落差に、見る人はとまどいを覚えざるを得なかったのではないか、と思う。
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またこの戦艦の戦いとそれにまつわる人間ドラマを、過剰な脚色や美化をなるべく排除し、当時の時代に雰囲気に誠実であろうとする視点で描いていた感じで好感がもてた。
現代の場面が意外に多く、(たぶん予算的な制約か)そのために肝心の艦内の様子や戦闘シーンの場面の時間が少なかったり、「大和」全景や戦闘で使われるCGがいかにも作り物っぽかったりしたのは残念だったが、この際そういうマニア的な視点は置いておこう。
また個人的な思いというか偏見としては、キャストの問題がどうも目についてしょうがなかったこともこだわるまい。
ただ一言いうなら、物語のキーパーソンで一途な熱血漢・正義漢でありながら平和主義という役どころの内田が、中村獅童の凶悪(どう見ても悪人面だと思うのだが)な面相のためにどうしても浮いて見えてしまったのは残念だ。違う、あれはもっとどっしりとした人情味を感じさせるような役者じゃなきゃいかんのだ。
また、確実な死を意味する任務に就いて苦悩し混乱する兵卒から士官を精神的に束ねる人物である大尉役の長嶋一茂は、あきらかに役者不足(ていうか役者じゃないじゃん)だった。彼の出演するところは物語のテーマを締める大事な場面なのだが、そこで必要なはずの熱い心情と静かな諦念がまったく表現できておらず、重要なセリフを棒読みしてしまっているからだ。あそこはぜひまっとうな役者を起用して欲しかった。
いっぽう、「大和」の烹炊班長役の反町はとてもかっこよかった。彼がよく似合う黒の制服で、窓の外を見て「散る桜も残る桜も…」というシーン、男だったら、日本人だったら涙しなくてはならん!
また現代場面での、内田の娘役・鈴木京香もその父への思いが伝わってくる感じでよかったし、なにより少年兵役をつとめる現代っ子であるはずの俳優たちが、一途な思いが伝わってくる熱い演技をしていて、爽やかでよかった。
さて、前に書いたように、映画に現わされた大和はたしかにかっこいい。
戦時シーンの冒頭、「大和」に乗り込む少年たちがその威容に度肝を抜かれ、最後の方でベテランの兵曹たちが「この艦は世界一美しいと思った。大和に乗っているのが誇りだった」と回顧したりしているのは、実際の当事者たちの気持ちをよく表していたのではないかと思う。
帝国海軍の象徴にして空前絶後の巨大戦艦、これがある限り負けるはずがない、という思いを抱かせるに十分だったのではないか。
また軍装姿の士官・下士官のしゃきっとした凛々しい所作や、規律に満ちた艦隊勤務の様子が、日頃ダラダラ生活している身には、かえって新鮮に思えてしまう。
「大和」を一個の巨大な戦闘機械として機能させるという、ただそのひとつの目的のためだけに奉仕する組織とその中での息詰まるような生活、その緊張感のリアルな演出があったからこそ、ドラマが光って見えたのだと思う。
もちろん狭い艦内に集団で密閉されてつねに急げ急げとせかされ、下士官からの精神棒や鉄拳の制裁に怯えるようなそんな艦内生活は、精神的に軟弱・弱腰になった現代の自分のような者には、一時間ともたないような厳しいものに違いない。それに較べたらちょっと体育会系の今の職場なんて50倍マシだと思われた。「大和」は、ナチの強制収容所の次くらいに絶対勤務したくない職場だ。
それに関わって、艦での勤務や激烈な戦闘、肉親との悲しい別れや、戦時下で次々に男たちが召集されていく銃後の苦しい生活に、当時の人々が舐めた辛酸がどのようなものか、片端でもわかった気がする。それはじつに心の奥底に刻み込まれるような強烈な体験だったと思う。
もちろん戦争はあってはならないことだし、ぼくらはそんなことが二度と起こらないよう批判精神を忘れてはならないだろう。
しかし、その渦中にあった人々の懸命の行動を安易に非難することはできないと思った。
とりわけ飽食というほどメシを食べ、集団に守られながら集団への果たすべき義務を忘れて、何を発言しようと安全圏にいる、自分たちのような柔弱な世代には。
ところで映画に表された、日本のため、家族のため、艦の仲間のために、一身を捨てることを省みない、少年兵をはじめとするそれらの人びとの一途さ、熱さ、真剣さは、生き方としてやはり爽やかで清潔に感じられてしまう。
もちろん、個々に死ぬのは怖かったり、親しいものへの未練があるものとしてドラマは描いているが、それを超える大切なもののために死ぬことには意義があると思っていた当時の軍人・兵士の心情が、それぞれの迫真の演技で描かれていたと思う。
そんな“死を賭す”心情・気合とは、おそらく映画に描かれていたようなものだったのではないだろうか。
もちろん映画の描写でどこまでも作り物ではあるが、当時のいわば時代精神の描き方として、あながち間違いとは思われない。戦争体験者やその精神性をいくらか継いでいる世代から、実際にそんなふうな気合を感じることがあるからだ。
それを現代の視点から時代的な限界といって批判することはいくらだってできるだろうし、もちろん当時だって人によってさまざまな温度差があった感情であるには違いないが、総じて当時の国民はそういう本気の思いを抱いていたといっていいのではないかと思う。
それがなければ、そもそもこの映画が題材にした「大和」の沖縄特攻作戦などというものは成立しなかっただろう。そういった強い心情がなければ任務のために死ぬことなど受容できるはずもないと思われてならない。
軍令部から特攻作戦を下達される場面にあるとおり、その作戦の無謀さと非合理性を徹底的に衝くこともできたと思われるのだ。しかし司令官役の渡徹也がいう「死に場所を得た」の一言で場の雰囲気は決する。
特攻というのは命令による外的な強制だけではできない行動に違いないという気がする。そうではないだろうか?
死地に赴くにはそれを納得した上での内発性がなければならないはずだ。
映画を観た多くの人が、とりわけ死を覚悟してなお爽やかに笑っていることのできる登場人物の姿に感動したという。肉親を捨て、妻を・恋人を捨て、それらの人のために自分を捨て去った彼らのいさぎよさは、やはり誰の目にも純粋で美しいものとして映るようだ。
人の心というのはそういうタイプの死を、よいもの、真なるもの、美しいものと感じるようにできているのだろうか。
しかしながら、そういうふうに美しい心情をもっていると描かれた兵士たちの、実際の死のきわめてリアルな描写は、じつに悲惨の一言というほかない。
対空機銃座に配置された主人公たちは、敵機の爆撃と機銃掃射にもろに曝され、文字通り血の雨の降る中で必死の反撃を試みるが、猛訓練の成果も、熱くぶつかり合った仲間たちも、圧倒的な火力の前に無力にあっという間になぎ倒されてしまう。
そして「大和」は、ほとんど有効な戦果を挙げ得ないまま、多くの将兵を道連れに爆沈して果てる。
この映画の戦闘場面の描写は、どんな英雄的行為も成立しえないような近代戦の無情さということを、美化も誇張もなく表現をしていると思われた。
圧倒的な物量差を前にした戦闘とは、このような一方的で酸鼻をきわめるものであったに違いない。そしてそれはさきの戦争の陸・海にわたる全戦線で起こった事態なのだ。
映画を見た者を深く混乱した気持ちにさせるのは、(たぶん正当に)美しく気高く描写された戦う男たちの精神性と、その死のあまりのあっけなさ・軽さ・無力さの実態との間にある、大きな落差だろう。
また、そのことはこの艦の運命についても言えることだ。
「大和」はたしかに海軍の象徴だった。
その巨大な威容と、反面の無力かつ無意味な特攻における“死”は、戦争初期の戦果に奢りやがて米軍に圧倒され消滅していく日本海軍の歴史を凝縮したものだったのだ。
そしてやはり、艦隊特攻というある意味での精神的な壮挙と、一方での限りなくゼロに近い戦果・壊滅的な敗北というあまりの落差に、見る人はとまどいを覚えざるを得なかったのではないか、と思う。
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