〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

ブログ授業、唯識の心理学について

2006-02-09 | Weblog
引き続き、前述のブログ公開授業を読んでいる。
いわば一口サイズのリアルタイム読書という感じで、本を読み通す時間と根性が失せつつある現状では、この形式はなかなか具合がいい。

現在、大乗仏教の哲学であり深層心理学であり実践理論である“唯識”の学びが進行中。うーむ、じつに深い! 表現はやさしいのに、内容のほうはただごとではないことが書かれているように思う。うまく言えないけど。
それはさておき、またレポートしてみた。提出先がないし、評価もされないのだが、まあ大学に戻った気になって…

(リンク、貼ってみました。なるほど、簡単だったんですね…)

ここ最近の記事では、唯識独特の、しかし現代科学が見出した世界観にも通じるような深い意味での一般性のある認識論、“三性(さんしょう)説”が解説されている。
ふつうに「これが仏教の世界認識だ」と無前提にいわれても、おそらく仏教から遠く離れてしまったぼくらには通じないものがあったかもしれない。

しかし、前期に学んだ“現代科学的コスモロジー”がさきに入っていると、この話はずいぶんわかりやすくなるようだ。
通説レベルの現代科学にもとづいて、「宇宙は“無”から始まって以来、すべてがつながって一体のまま進化してきた。その宇宙的なつながりとかさなりが現在の私たちにいたっている」ということこそが、じつはリアルな現実認識なのだということが、いま明らかになりつつあるという。

べつにそんなふうに考えなくとも、現にぼくらは両親から生まれ、先祖、食べ物、空気、水、等々の無数の縁によって「生かされている」というのが本当のところであるというのは、たぶん小学生でもわかる事実だ。

こうして現にぼくらがリアルだと感じている「そんなのカンケイない、自分は自分だ」というようなエゴ的な自己認識は、ようするに意識の及ぶ範囲が狭くて、自分を支えている深みと広がりに届いていないという意味で、単なる認識不足ないし錯覚ということになるようだ。

ふだんは単に日常の惰性に流されて意識していないだけで、「“自分”がそういう無数の縁のつながり・かさなりのなかにある」というのが、実はほんとうの意味で現実的だということは、ブログ授業に書かれているように、いわれてみるとすぐわかることだと思う。

そしてそういう無数の縁が、無限に等しい宇宙的な一体性まで拡がっていることを、科学にもとづいて根拠づけることができるという。
単に知らなかっただけで、すごい時代にぼくらは生きている。

唯識の論師たちが、その同じ事実を瞑想により洞察したのが“三性説”であるとのこと。
内面的にも外面的にも、突き詰めると同じ世界の事実が現れてくるということなのだろう。
すべてがつながって一体であるという事実。

三性説では、そういうつながりの世界を“依他性”、世界が一体であることを覚った境地を“真実性”、それに対してすべてをばらばらに見てしまうようなものの見方というか錯覚を“分別性”という用語で説明している。
なにせ仏教用語なので印象で引いてしまいたくなる感じだが、その印象を置いておいて意味のほうを取ると、話はきわめてシンプルだと思う。

コスモロジーで納得できたように、ほんとうは世界は事実としてつながって一体であるはずなのだが、人間はそこに言葉を持ち込んで、世界が名付けられたとおりにバラバラなモノから構成されるていると見てしまうのだとのこと。
人間が言葉を用いることから、世界の本質に対する根本的な錯覚-問題性が生まれる、それが仏教用語でいう“無明”なのだという。

しかし、こうやって現に言葉を使って考え書いているところでは、そういう一体性の“真実性”がどういうものなのか、そして言葉を使うことの問題性が実感としてどんななのか、というのがわかりにくい。
それについては古代の唯識の人々がやったように、瞑想や修行的実践に取り組まなくては心底納得することは難しいのだろう。

しかし、宇宙・世界が本来つながって一体であり、それに対しぼくらが言葉をつかってその一部を切り取ってばらばらに世界を見てしまっているという事実については、現状の立場からでもよくわかるような気がする。
世界をバラバラにわけ、自他をバラバラに分離させ、“自分”を狭く狭くしてしまっているということなのだろう。

「凡夫」とか「無明」とかというところが、ぼくらの世界認識というか、心、生き方、それ自体の現実・現状らしい。
そのことがアタマではわかっても、そういわれると、ちょっとつらいものがある。つまりこうしてやっている日常の思いが、いつも何かまちがっているということなのだから。
坐禅、ぜひやりたいけれども、それをつきつめないとほんとうのところは結局見ることができないというのは、けっこうしんどい。

しかし、この狭い世界の切り取り方をもうちょっとうまく・正しくできるようにする、つまり依他性の事実にこの分別的認識を近づける、ということなら現状の自分にもできそうな気がした。
事実のほうに自分の思いを合わせるというのは、まるで前に学んだ論理療法のようだ。

自分の存在を可能にしている縁のつながりとかさなりをよく自覚し、それに即して生きるというのが、唯識的に「よい人になる」ということの意味であるとのこと。
自分がじつは自分一人では生きていないというのが誰でもすぐわかる事実であるとすれば、それによって何が「よい」のか、ということの普遍性が明確になってくると思う。

ぜひそういう意味での「いい人」になりたいと思った。
こうしていわれてみると、「自分一人の力で生きている自分」なんてのは、なるほどただの錯覚だ。
そういうふうな、いまクールでリアルだとされているエゴイズム的な個人意識は、ようするにその自分が生きている事実に合っていないのだ。だからいろんな悩みとか問題をひきおこすのだろう。


大学時代、晦渋でそもそも読むのが難しいような哲学書を、まなじりを決して苦闘の末読破することこそが“真理”だ、みたいに思って、しかし結局読まない(というか実際に何が書いてあるのか読めない)でいた。
だから、こういう深い哲学的な話が、しかしじつにわかりやすいというのはすごいと思うのだ。

引き続き、レポートがてら、書いていきたいと思う。


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これもブログのおかげ、ネットのおかげ。読書さぼってたのも悪くなかったか。
ウーム、何だかわかった気になってきた、気がする。
くわばらくわばら。

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