最近、更新が続いている岡野守也氏ブログから再三となるが転載する。
趣味の「JFK暗殺」解明のブログをすすめたいのだが、最近就労に加え子育てにも追われるという日常となり、更新がままならなくなってきた。
ケネディ大統領暗殺事件については、これ以降十数回かけて進めていく構想のつもりであった。
大まかに言うと、いわゆるウォーレン報告の中核部分であるオズワルドの犯行とは、銃撃の3発が3発とも彼が行なったとするには不可解さ・怪しさに満ち満ちていること、一方でつらつら述べてきたアルトジェンズ写真その他の眼に見える証拠から、明らかに教科書倉庫ビル向かいの、写真にも写っているダルテックスビル2階からの射撃がメインでキルゾーンが構成されたであろうこと、以降の「グラッシーノール」からの銃撃はそれをバックアップするものであり、路傍のいわゆる「アンブレラマン」や「ブラックドッグマン」といった怪しげな人物の存在も、メインの射撃を判定し、バックアップ射撃にゴーサインを出すためのものだったことが推測される、等々のことを書いていく予定であった。
そのうち時間があれば書いていきたい。あまりよい趣味とは言えないが、いまだにバカげたオズワルド単独犯行説を語っている報道が多いので、このことは趣味の執筆としてではあるが、ぜひ資料公開による全貌解明の前にケリをつけておきたい。
乳児の子育てに及ばずながら参加してみてわかったのは、ばらばら個人主義となった社会で、女性が「社会進出」することが普通になったが、その割には社会進出の体制が満足に整備されていないことだ。また、それ以前に、そうして子育て文化を破壊していわゆる「社会進出」を強迫的に強要されることが、果たして母となる女性にとって、そして何より子にとって幸福だったのか、はなはな疑問がある。
こう書くと世の女性から総攻撃であろうが、そんなことは匿名のこの言語空間では関係ないことだ。
現状の子らの世代の、「発達障害」などといった言葉で片づけられがちな「荒れ」の根源は、明らかにここにあると見える。しいて障害という言葉で使うなら「愛着障害」が、この無残な現状・現象を現す言葉として適切であろう。
ともあれ、岡野氏のブログである。人間は、そうした発達早期で生じた障害があっても、以降の教育・学習・訓練で克服しリカバーできる潜在性を備えているのは、種々の心理学理論や技法から明らかであると思う。
その点でも、死ぬことの絶対的な恐怖が不可避で、かつ生きる意欲を阻喪させる現代の子どもたちの教育・学習・訓練の過程はあまりに寒々しい。言葉は悪いが、なるほど教育とは制度化された「洗脳」そのものである。
岡野氏も書いておられるように、氏の提唱になるコスモロジー教育/コスモロジー心理学とは、岡野氏やこうして転載している私の個人性に関わらず、世の中に広まるべき(そうでないとこの先が危ういという意味での条件付きの「べき」である)メッセージだと思う。こうして読者の少ないブログであえて転載しているのもそういう意味で行っているつもりである。
ぜひメッセージ拡散にご協力願いたいと思う。
以下、岡野守也氏のブログ『伝えたい!いのちの意味―岡野守也の公開授業+α』より転載。
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ここのところ、「死ぬのが怖い」という新聞の人生相談の投書を読み、「死にたい」と思っている若い女性たちがだまされて殺されたという事件のニュースを聞きながら、「一見まったく逆のように見える2つのことの根っこは実はおなじなのだから、そこから取り組んでこそ根っこからの、つまり根本的な解決に到ることができるのだがな……」と思っています。
それは、現われた感情は逆でもその元・根っこになっている「死」の観念はまったくおなじだということです。
今、日本人の多くは「死」をすべての終わりあるいは無になることと考えているように見えます。
死がすべての終わりあるいは無になることだとすると、現状の生・生活がそれなりに楽しくて一定の愛着・執着があれば、それを失いたくないので、当然、「死にたくない」「死ぬのが怖い」ということになります。
しかし、現状の生・生活が耐えられないくらい苦しいと感じられると、すべてが終わる=苦しみも終わる=楽になれると思うので、「死にたい」という気持ちになるわけです。
しかし、ほんとうに「死はすべての終わり・無になること」なのでしょうか?
確かに個人のことだけを考えると、死はすべての終わりのように見えます。
しかし、「いのち」というものは先祖から子孫へと続いているもので、現代科学によればおそらく地球上での生命の誕生以来38億年か40億年前から続いています。
ある生物学者の譬えによれば、ある乗客が自転車からバスへ、そして電車に、さらに飛行機へ……と乗り換えていく場合、乗り物は換わっても乗る人はずっとおなじであるように、いのちは個体を乗り換えながら40億年生き続けている、ということになるのだそうです。
私という個体は、いのちを前の世代から受け継ぎ次の世代へとバトンタッチしていく存在なのです(私個人が子どもに恵まれなかったり産まなかったとしても、前の世代やその前の世代から枝分かれしていのちは続いていきます)。
死は、個体にとって終わりであっても、いのちにとっては自然な引き継ぎのプロセスであって、終わりではありません。
ところが、戦後教育で近代的個人主義を教え込まれたため、現代の日本人は、若ければ若いほど、自分を自分・個人だけで考え、連続するいのちの鎖の一つとは捉えないようです。
しかし、「個体は死んでもいのちは終わらない」のです。
だとしたら、個人の生きて死ぬ理由は、自分だけが幸福・楽しいか不幸・苦しいかだけにあるのではなく、自分の代でいのちをより豊かにしてそれを次の世代につなげることができるかどうかにある、そちらのほうがより重要なのではないか、と私は考えます。
さらに、戦後教育ですべてを物質と捉える近代科学主義を教え込まれたため、現代の日本人の多くは、物質の複雑なメカニズムである生命体・私は、死んだらばらばらの物質(原子や分子)に解体して終わりであり、物質は残るが、それは意味としては無意味なので、「無になる」と考えているようです。
しかし、アインシュタイン以降の現代科学の眼で見れば、「すべては物質」であるのはあるレベルのことであって、もっと掘り下げると「すべては宇宙エネルギー」しかも「すべては一つの宇宙エネルギーの現われ」ということになるようです。
生も死も、宇宙エネルギーのある時の現われ・かたちなのです。
そういう意味で言えば、個人は死んだら宇宙エネルギーの世界に帰るのであって、無になるのではありませんし、なによりもいのちは生き続けるのです。
こうしたことがしっかりとわかり、心に染みてくると、少しつらいくらいですぐ死にたいと思ったり、自然なプロセスとしてやがて来る死を過剰に怖れたりすることがなくなるのは、すでにご紹介したコスモロジー教育の効果からして明らかだ、と私は自己評価していますが、読者はどうお考えになるでしょう。
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