ここ数年、サングラハ心理学研究所のオープンカレッジに出席することを中心に、心理療法から仏教の深層心理学・唯識、さらに最先端の現代科学による新しいコスモロジーなど、不勉強だった大学時代には考えられなかったほど(とりあえず主観的には)勉強してきた。
しょぼたれていた学生当時からすると、こういう状況で元気にいることができるというのは考えられなかったことだ。幸運と努力の賜もので就職できたからいいようなものの、当時はほんとうに自分が社会に出てやっていけるのかまったく自信がなく、悪くするとフリーターとかでいまだにぶらぶらしていたかもしれない。それは経済的には許されなかっただろうが。
こうして考えてみると、当時いろいろマイナスだったのがいまこうしてけっこう楽しくあることができている必要条件だったような気が、最近すごくする。いまもマイナスはけっこうあるが、とりあえずずいぶんマシにはなってきたということで、こういうことを語ってもいいのかなと。
とても元気で社会適応し友人が多かったらそもそもこういうことを学ぼうという動機も必然性もなかっただろう。
全員が人格円満ですばらしい家族だったのなら自分を内省してより向上しようという意欲はあまり起きなかったような気がする。
多くのすてきな趣味だとかスポーツとかに幅広い関心があったら、そういう楽しいあれこれに気をとられて、本質的なことは何かと足を止めることもなく時間をすごしてしまっていただろう。
とはいえ、学びはまだまだ満足がいくものではないのは残念だ。しかしそれはまだまだ余地がいくらでもあるということでもある。あとは与えられた時間でどこまで与えられた潜在能力を開発し、それを社会のために活かすことができるか、ということだけだ。べつに自己非難する必要はない。目的まで距離があるとすれば、最低限それに一センチだけでも近づけるように当面がんばるのみだろう。
人生にとって意味のある学びとは、自分が惰性で無自覚に抱いて育ててきた狭い思いの枠組みのなかから、その枠組みにとって都合のいいあれやこれやの知識を取り入れて満足するといったものではないと思う。よほどの才能のある人間でない限り、そういうふうに平面的に多数の知識をため込むと、かえってどれがより本質的で優先的なのかという整理をつけるのが難しくなって心理的な混乱を招くだけなのではないかと、体験的に思う。
そうではなく、そういう現状の心の枠組み・参照枠それ自体を変換し変容させ、さらに超えていくものこそが、人格的に「学ぶ」ということの意味なのではないかと思う。
だから、重点を絞り、繰り返し、能動的に思考するということがこの場合の学びの方法となると思うのだ。
万巻の書を読んだとしても、自分の受け取り方の世界に一貫したものがなければ、厖大な知識をとりまとめることができないだろうし、そもそもコンテクストのないところでテキストを読み取ることそれ自体が難しいのではないかと、これも体験的に思う。結局よくあるお受験的な知識量の競争のための読書、みたいなことになってしまうのがオチなのではないだろうか?
そうして深化し拡張した自分なりの世界の解釈によって、世界はまさにそのとおりに実感されるようになるのだろう。だったらよりよい(クールに言うならより“マシ”な)世界の解釈を選択した方が、どう考えても生き方として得だし賢い。世界観は進化し成長しうる、というのはたぶんそういうことなのだと思う。
と偉そうに言っても、自分の日常生活の実感が、現代科学のコスモロジーの、「始まりと秩序のある、ダイナミックに進化する一つの宇宙の、その現れとしての私たち」というふうになっているとはまだまだ言い難い。
ニヒリズム的な錯覚ということを学んでおきながら、まさにそのように実感してしまっていることの方がおおいくらいだ。
また、やはり受験競争の中で生きてきた者として、このコスモロジーということにおいてすら「おれはこんなに知ってるんだぜ」というような“自分を肥え肥らせる”的な動機があるような気がする。そういう学び方をしてイヤミになってしまうのはつまらないことだ。それでは本当はそれを通じて得たいはずの“承認”ということから逆に遠ざかってしまう。
またそれが自己満足的で閉鎖的な知識の集積だったら、それにいったい何の意味があるだろう?
そんなものならない方が気が軽くなってよほどいいのではないか?
ともかく、自分の狭い参照枠を打破し超えて変容していくような学びをしたいと思った。それがどこまでできるかどうかは置いておき、ちょっとでも近づければとりあえずよろしい。できるという自信(=自己信頼)をもってのぞんでいきたいと思う。
しょぼたれていた学生当時からすると、こういう状況で元気にいることができるというのは考えられなかったことだ。幸運と努力の賜もので就職できたからいいようなものの、当時はほんとうに自分が社会に出てやっていけるのかまったく自信がなく、悪くするとフリーターとかでいまだにぶらぶらしていたかもしれない。それは経済的には許されなかっただろうが。
こうして考えてみると、当時いろいろマイナスだったのがいまこうしてけっこう楽しくあることができている必要条件だったような気が、最近すごくする。いまもマイナスはけっこうあるが、とりあえずずいぶんマシにはなってきたということで、こういうことを語ってもいいのかなと。
とても元気で社会適応し友人が多かったらそもそもこういうことを学ぼうという動機も必然性もなかっただろう。
全員が人格円満ですばらしい家族だったのなら自分を内省してより向上しようという意欲はあまり起きなかったような気がする。
多くのすてきな趣味だとかスポーツとかに幅広い関心があったら、そういう楽しいあれこれに気をとられて、本質的なことは何かと足を止めることもなく時間をすごしてしまっていただろう。
とはいえ、学びはまだまだ満足がいくものではないのは残念だ。しかしそれはまだまだ余地がいくらでもあるということでもある。あとは与えられた時間でどこまで与えられた潜在能力を開発し、それを社会のために活かすことができるか、ということだけだ。べつに自己非難する必要はない。目的まで距離があるとすれば、最低限それに一センチだけでも近づけるように当面がんばるのみだろう。
人生にとって意味のある学びとは、自分が惰性で無自覚に抱いて育ててきた狭い思いの枠組みのなかから、その枠組みにとって都合のいいあれやこれやの知識を取り入れて満足するといったものではないと思う。よほどの才能のある人間でない限り、そういうふうに平面的に多数の知識をため込むと、かえってどれがより本質的で優先的なのかという整理をつけるのが難しくなって心理的な混乱を招くだけなのではないかと、体験的に思う。
そうではなく、そういう現状の心の枠組み・参照枠それ自体を変換し変容させ、さらに超えていくものこそが、人格的に「学ぶ」ということの意味なのではないかと思う。
だから、重点を絞り、繰り返し、能動的に思考するということがこの場合の学びの方法となると思うのだ。
万巻の書を読んだとしても、自分の受け取り方の世界に一貫したものがなければ、厖大な知識をとりまとめることができないだろうし、そもそもコンテクストのないところでテキストを読み取ることそれ自体が難しいのではないかと、これも体験的に思う。結局よくあるお受験的な知識量の競争のための読書、みたいなことになってしまうのがオチなのではないだろうか?
そうして深化し拡張した自分なりの世界の解釈によって、世界はまさにそのとおりに実感されるようになるのだろう。だったらよりよい(クールに言うならより“マシ”な)世界の解釈を選択した方が、どう考えても生き方として得だし賢い。世界観は進化し成長しうる、というのはたぶんそういうことなのだと思う。
と偉そうに言っても、自分の日常生活の実感が、現代科学のコスモロジーの、「始まりと秩序のある、ダイナミックに進化する一つの宇宙の、その現れとしての私たち」というふうになっているとはまだまだ言い難い。
ニヒリズム的な錯覚ということを学んでおきながら、まさにそのように実感してしまっていることの方がおおいくらいだ。
また、やはり受験競争の中で生きてきた者として、このコスモロジーということにおいてすら「おれはこんなに知ってるんだぜ」というような“自分を肥え肥らせる”的な動機があるような気がする。そういう学び方をしてイヤミになってしまうのはつまらないことだ。それでは本当はそれを通じて得たいはずの“承認”ということから逆に遠ざかってしまう。
またそれが自己満足的で閉鎖的な知識の集積だったら、それにいったい何の意味があるだろう?
そんなものならない方が気が軽くなってよほどいいのではないか?
ともかく、自分の狭い参照枠を打破し超えて変容していくような学びをしたいと思った。それがどこまでできるかどうかは置いておき、ちょっとでも近づければとりあえずよろしい。できるという自信(=自己信頼)をもってのぞんでいきたいと思う。
ようするに、「わかる」ということにもいわばレベルの違いがあると思うのです。それがいかに人格化され日常の行動にまで表現されているかという意味で。昔の人がいった「はらにおさめる」とか「気合いが入っている」とかという表現は、とかく精神主義にすぎないとされがちですが、はっきりとした内面のリアリティだったのではないかと思います。それに引き替え、ぼくらが学校でやってきた「学習」というやつは、アタマのさきのごく平面的な理解でした。つまり、リアルであるとわかることが深まると、まさにリアルであると感じられるようになると。そう推測し期待して学んでおります。
解ることとと感じる事との間に
花火が打ち上げられたように感じながら読みました。
どうもこんばんはッス
おそらく超多忙な受験目前期だと思います。どうか身体にお気を付けあれ。まあ精神的には、おれら楽勝だわな。がんばろうぜ。
ブログ、そう言ってもらえて嬉しいです。シークレットシューズでも、まあはたから見てわからなきゃ実身長、とりあえず〈かのように〉語ってればいつかそういうふうになっていくのではないかと。言葉の種を蒔く、という意味でもね。
私も、今日のブログは自然でなおかつ素直感じで良いな~(かっこよいな~)と思いました~。
それでは、また。
いつもおそくまでありがとうございます。
ここのところ日常「風呂に入って寝るだけ」というような生活をしているため、こうやってコミュニケーションをさせていただくのが自分にとってとても大切になっています。ネットなんて疑似環境にすぎん、とかかつては思っていましたが、なかなかどうして、楽しいですね。
某国の首領様ばりのシークレットシューズを履いて背伸びしています。しかし「〈かのように〉ふるまう」ことが人間成長においてはかなり不可欠とのこと、ナットクでありました。
励ましの言葉ありがとうございます。いつか心から楽勝と思えるよう、がんばりたいと思います。
いつも寒い中を早朝からお疲れ様です。
今日のブログ、とてもポジティブで格好いいですね。
自然体でガンバッテネ!!