南予地方の民俗芸能である鹿踊の中でも、最も伝統的な鹿踊は、宇和島市の八ツ鹿踊であると一般には認識されている。「鹿踊りは、『しし踊り』『デンデコ』『鹿の子』とも呼ばれ、南予地方に伝わる民俗芸能です。これは、伊達秀宗の宇和島入部にともない、仙台からもたらされたもので、その原形は今でも東北地方に分布しています。伝えられた当時は、『八つ鹿』でしたが、各地にひろがるうちに鹿の数が減り、今では『五つ鹿』が一般的になっています。」(愛媛県歴史文化博物館常設展示の解説ラベルより)このように、もとは八ツ鹿で、それが各地に伝えられるうちに頭数が減らされていったというのである。しかし、これは俗説であり、史実では無い。『愛媛県に於ける特殊神事及行事』(昭和2年)によると、「近年五ツ鹿ト称シ五人ノ少年鹿ノ仮面ヲ被リ舞踊セシヲ大正十二年十一月 皇太子殿下行啓アラセラルルニ際シ古式ニ則リ三頭増シテ八ツ鹿トナシ台覧ニ供シタリ」とあり、もともと宇和島の八ツ鹿も五頭立てであったのである。宇和島市立伊達博物館所蔵の宇和津彦神社祭礼絵巻(江戸時代後期の祭礼の様子を描いた絵巻)にも五ツ鹿で描かれている。八ツ鹿へと変貌したのは、大正11年11月の四国(宇和島)への摂政宮行啓が契機であり、『海南新聞』大正11年11月27日によると、「東宮殿下の御台覧に供した南予名物『鹿の子踊り』」、「鹿の子の由来 紀元不明伊達家旧藩時代より祭りのネリ物として用いたり」と紹介され、また、『奉迎日記 輝く南海』(城戸暁風著、大正13年)によると、「天赫園では御慰め物を台覧あらせられたが中にも『唐獅子』を御覧に相成つて『之は各地方で見たが今回のは却々風が変つて面白い』との有難き御言葉を賜はり、又『鹿の子は優美で面白かつた』との御言葉を賜つた。」とある。皇太子に見せるために古式に則り、八ツ鹿にしたというが、その「古式」の根拠は不明である。もとが八ツ鹿だったという根拠は歴史資料、伝承からも確認できない。宇和島に残る安政年間製作の鹿古面も五つしか無いのである。さて、鹿踊を担当する地元宇和島市裡町一丁目の当時の対応であるが、それまで五ツ鹿だけであったが、大正11年に東宮殿下台覧のため、新たに八頭分の鹿面・衣装を新調し、町で当時の金で1300円をも調達し、衣装や頭を製作したと伝えられている。この八ツ鹿は、宇和津彦神社秋祭(10月29日)に演じられるが、昭和42年に「宇和島市裡町八ツ鹿踊り保存会」発足し、昭和40年代後半、後継者不足に悩み、一時五ツ鹿で奉納した時期もあった。これに危機感を抱いたのか、宇和島市は昭和49年に「八ツ鹿」として市指定無形民俗文化財に指定したのである。大正時代に大きく変貌した鹿踊がここで「文化財」となった。このように八ツ鹿の歴史的事実を確認すると、案外「伝統」というものは、近代になって創出されていったものであることに気付いてしまう。
2000年08月25日
2000年08月25日