愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

長野の舞台と南予の山車

2000年10月06日 | 祭りと芸能

9月30日~10月1日、日本民俗学会年会が信州大学で行われたので、私も参加がてら長野、山梨に行ってみた。9月30日はなんとか時間を見繕って、今年8月に開館した流鏑馬資料館を見学する目的で大町市にまで足を運んだ。毎年7月28,29日に行われる大町市の若一王子神社の祭礼では、小学生が流鏑馬を行う全国的にも珍しい行事が目玉であるが、流鏑馬だけではなく、「舞台」と呼ばれる人形屋台(山車)も登場するため、資料館ではそれらの展示が見られると楽しみにしていた。残念ながら舞台の実物展示はなかったが、全部で6台ある舞台の写真が見ることのできたのは収穫であった。また、流鏑馬や長野の有名な七夕人形については、実物資料が列品されており、充実したものであった。舞台は車輪の付いた基壇部が格子戸になっており、中に囃子が乗り込み、屋根付きの台上には人形を乗せるといった形状。これは愛媛県南予の祭礼に見られる山車に類似しており、以前から興味を持っていた。直接南予と長野との関係があるとは考えていないが、一時期、このような人形屋台が全国的に流行し、その名残によって類似しているのかと推測をしている。『大町市史民俗編』によると、舞台は大黒町、九日町、六日町、高見町、八日町、五日町の計6台あり、製作年代は、古い物で江戸時代後期のようである。大黒町は明治5年に松本市本町二丁目から購入したもので、文政年間に諏訪の立川和四郎當昌の作。六日町は嘉永年間の修理銘があり、それ以前の物。高見町も天保年間以前という。おそらく、いずれも松本周辺で製作されたと考えられるが、その松本の代表的な祭りである天神祭りに登場する舞台の製作年代は『松本市史』によると江戸時代後期から昭和初期にかけてである。戦後の製作は見られないようだ。愛媛県南予地方の山車も同様の傾向が見られる。この戦後に製作されていないという事実は、戦前(特に明治時代以前)には流行し、庶民に受け入れられていた人形屋台が、戦後はさほど人気が上がらなかったことを示しているのではないか。愛媛県西宇和郡伊方町九町では、江戸末期に製作された人形屋台を使用していたが、昭和30年頃に若者が「担ぎたいから」という理由で、曳きの屋台をとりやめ、担ぎの四ツ太鼓に変更したという話もある。19世紀から20世紀初頭にかけては、祭りの担い手が人形屋台の派手さ、豪華さで満足できていたのであろうが、戦後は、「担いで」、「勇んで」を要求するようになって、人形屋台の人気が薄れていったといえるのではないか。飛騨地方のように、単に人形を屋台に乗せるだけでなく、からくりを取り入れるといった工夫がなされれば、人形屋台も存続するのだろうが、南予の山車や松本周辺の舞台は言ってみれば、19世紀の祭礼文化を引き継いだものであり、時代の流行の波にさらされると、変容する可能性の高いものなのではないだろうか(松本周辺の祭礼を実見していないので断定はできないが)。

2000年10月06日