愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

塩の道・千国街道

2000年10月07日 | 生産生業

9月30日に訪れた流鏑馬資料館は、大町市の塩の道博物館に隣接するものであった。この塩の道博物館では、新潟県糸魚川から長野県大町にかけての千国街道、別名塩の道に関する展示をしていた。展示物で眼をひかれたのは、裂織りの炬燵布団であった。2年前に千葉県佐倉市の歴博で行われた企画展「布のちから・布のわざ」にて、展示されていたのを見たことがあり、裂織り炬燵布団を見るのは二度目だが、なかなかの感動ものである。愛媛では裂織りは仕事着、帯以外には使用されている例を見たことがなく、炬燵布団のように大量の布を利用したものを見ると、手仕事の素晴らしさを実感してしまう。裂織りは日本海側に多く見られるが、この大町も千国街道を経由して日本海側から裂織り文化が流入しているのであろう。かつては、塩の道は塩だけではなく、大量の物資も運搬されていたはずで、北前船によって大量の木綿布が糸魚川にもたらされ、千国街道を通って運搬されたはずである。
塩も当然、北前船によって運ばれていた。博物館で写真展示してあった資料によると、寛政4(1792)年に大町の人が糸魚川で買い入れた竹原塩(広島県竹原市のことであろう)を運ぶために、番所を通過させてほしいとの願書が残っているらしい。瀬戸内の塩が日本海を経由して長野にまで流通していたことも興味深く感じた。

2000年10月07日

山梨県勝沼町のぶどう薬師

2000年10月07日 | 信仰・宗教

10月2日には、山梨県東山梨郡勝沼町に行ってみた。ここは葡萄とワインで有名な町。一面、葡萄畑の光景は圧巻で、私も葡萄、ワインを思う存分食してみた。月曜日だというのに、ワイナリーは人がごったがえしており、東京近郊の観光地として成功しているようだ。
この勝沼で有名なのは「ぶどう寺」とも言われる大善寺。養老2(718)年に行基が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、行基はその夢を喜び、早速、薬師如来像を刻んで安置したのが寺のはじまりといわれるところ。現在でも、国宝薬師如来像の左手には葡萄が乗せられている。仏像に果物を供えるという例は普通一般であるが、仏像が果物を直接持つというのには驚かされた。山梨の葡萄文化の発祥が奈良時代にまでさかのぼって語られているとは・・・。
ひるがえって、愛媛の特産品ミカンのことも考えてみた。ミカンもかつては一種の薬であり、薬師如来が持っている例があってもおかしくはないのだが、そのような仏像は聞いたことがない。愛媛のミカン栽培は近代以降に盛んになったのだろうが、ミカンが愛媛の風土に根ざした文化なのであれば、その起源伝承が生成されていてもいいはず。
愛媛のミカンに比べ、山梨の葡萄の方が風土に根ざしているように思えた。

2000年10月07日


野村町の阿下歌舞伎

2000年10月07日 | 祭りと芸能

9月26日に、野村町シルク博物館にて所蔵されている阿下歌舞伎の資料を調査した。衣裳類はこれまでに展示で見ているため、今回は帳簿類を閲覧させていただいた。
野村町の阿下歌舞伎は、江戸時代末期から昭和28年まで活動した野村周辺では最も人気を博した地芝居であり、衣裳も150点ほどが状態の良好のまま保存されている。
帳簿類の中には、衣装・引幕台帳があり非常に参考になった。台帳には、引幕14点、衣装147点が記載されている。年代は明治2年~昭和11年5月までのもの。衣装の名称、数量、寄進者を列挙。台帳記載の衣装は現在もほとんど残存していているらしい。現存衣装には、台帳に記載された番号が縫いつけられており、対照することができるとのことで、資料群として活用しやすいし、調査もしやすいものだ。台帳によると、衣装の新調は、明治2、3年、明治20~40年代、昭和3年、昭和11年に多い。寄進者(ヒイキ)の傾向は、地元阿下の他に、野村、前石、蔵良、平野、鎌田、釜川、岡成、大西、大暮(以上野村町)、田穂(城川町)、狩江(明浜町)の者と阿下のみならず、広範囲にわたっている。明治25年の「阿下芝居花取帳」によると、寄付者は野村町の者他、田穂(城川町)、布喜川(河野又吉)、若山(井上若太郎)(以上八幡浜市)の者も見える。阿下歌舞伎が、野村のみならず、広く知られていた存在であったことをものがたっているだろう。
また、昭和10年の請求書綴りから衣装が大阪桜橋の八幡家演藝百貨店から購入したことがわかったし、昭和3年以降の現金収支計算簿から、阿下が各地の地芝居等に衣装を貸与していたことがわかった。その貸出先も野村のみならず、城川、宇和、大洲など広範囲であった。
昭和8年5月27日   野村町へ、カツラ
昭和9年12月26日  釜川へ、衣装
昭和10年3月6日   大西青年芝居へ、衣装
昭和12年3月11日  中筋平野青年芝居へ、衣装
昭和16年旧7月4日  喜多郡蔵川村、衣装
昭和17年11月21日 釜川青年、幕
昭和17年12月9日  魚成村今田、衣装
昭和19年10月20日 魚成村今田、衣装
昭和21年1月6日   宇和田之筋地方の芝居(森岡只平)、衣装

この阿下歌舞伎は、衣裳道具類が残存しているだけではなく、帳簿類がしっかりと残っており、歌舞伎の経営の実態を知る上では、好材料が揃っている。ただし、野村町誌をはじめ、各種の地元の文化関係誌には阿下歌舞伎のことは全くといって取り上げられていない。今後、シルク博物館が予算を計上して、歌舞伎の図録などを刊行してくれることを切望しているのだが・・・。

2000年10月07日

穴井歌舞伎の手附

2000年10月07日 | 祭りと芸能

八幡浜市穴井にて戦前に行われていた地芝居では、手附(振り附け)や三味線は余所から呼んでいたのであるが、「芸題録」(土田衛「資料紹介:愛媛県八幡浜市の穴井歌舞伎について」『芸能史研究』24)によると、次のような人達が穴井を訪れている。
手附(振付け)
八幡浜,鶴吉,明治19
宇和島旧城下,瀬川寿幸,明治20~21
広島市,坂東周調,明治22~29
別府稲荷町,嵐梅香,明治34
土佐,嵐三津十郎,明治35
宇和島戎町,坂東和吉,明治35(顔師)
楠浜(川之石),斉藤百太郎,明治35~大正12
大洲町中村,市川海老治,明治36~38
別府町塗師町,実川玉太郎,明治39
西国東郡真玉村,市川雀三郎,明治40~45

三味線(弾語)
八幡浜カ,鶴沢市松,慶応3~明治3
八幡浜,鶴沢勝七,明治4~29
川之石,野沢勝七,明治27~30
川之石,野沢勝平,明治28~31
川之石,野沢勝之助,明治31~大正12年
御荘,竹本花牒,明治45
昭和初期から昭和20年すぎまでは、九州から「雀さん」という人が手附で来ていたということを穴井の初老の人は覚えている。この「雀さん」とは、上表に見える大分県西国東郡真玉村の市川雀三郎のことであろうか。未だ、九州の歌舞伎や役者村については現地調査していないが、穴井歌舞伎に影響を与えたこれらの地域の歌舞伎の実態を調査する必要があると思っている。

2000年10月07日