愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

江戸時代の太鼓台

2001年03月11日 | 祭りと芸能
東予方面に布団太鼓が出現するようになったのは、一八世紀後半のことである。寛政元(一七八九)年の佐藤正治氏蔵「神輿太鼓控覚帳」が、東予地方の布団太鼓の最古の史料とされている。この史料には「それ、神は人の敬うによって威を増し、人は神の徳によって運を添えるは実なり。当社御祭礼の賑わい殊に宿願あるに任せて、神輿太鼓を飾り調えて、大いに心をすすめ奉る。」とあり、この寛政元年に布団太鼓(ここでは「神輿太鼓」と記述されている)が登場しているのである。これと同じ年には、香川県の大野原八幡神社の「ちょうさ太鼓」が登場しており、この時期に讃岐から東予地方にかけて飾り幕の発達した布団太鼓が流入してきたようである。太鼓台祭りで有名な新居浜市では、この時期には布団太鼓が存在した史料は見あたらず、東予地方でも、東側の宇摩平野から順次、西に伝播していったことが推測できる。さて、川之江市立図書館蔵「役用記」に、文化三(一八〇六)年の川之江八幡神社の祭礼行列が記されている。ここにも「神輿太鼓」と呼ばれる布団太鼓が五台が記されており、祭礼の中で布団太鼓が風流の主流になりつつあることがわかる。 新居浜市における布団太鼓の初見は文政五(一八二二)年の「船大工仲間永代迄の諸覚帳」(『新居浜太鼓台』三〇四頁所収)である。ここには「東町太鼓」の記述があり、この頃から新居浜では布団太鼓が多くなってきたようである。文政九(一八二六)年の「一宮神社文書」(『新居浜太鼓台』三〇四頁所収)には、「当方ニテ檀尻再興又ハ近年ニ至りみこし太鼓と申もの出来之節ハ」という記述があり、この地方ではもともとダンジリ(ここでは「檀尻」と記述)が主流であったものが、文政年間になって布団太鼓(ここでは「みこし太鼓」と記述)が流行したことが推察できるのである。これ以降、新居浜地方でも布団太鼓の記述は多くなり、数多くの「太鼓台」が製作されていったことがわかる。
 さて、この当時の新居浜地方の布団太鼓の形態は不明であるが、西条祭りの記録である「西条花見車」によると、「其次御輿楽車といふを引くなり。其様上に五重七重の蒲団を積重ね、黒段々もあり、黒計なるもあり、赤計もあり、何れも天鵞絨、羅紗等也。前後左右に蒲団〆といふ二つ宛あり。これに様々の高縫あり。雲に龍、竹に虎、瀧に鯉、岩に獅子、桐に鳳凰等なり。幕は天鵞絨、猩々緋に高縫なり。高欄の縁には四方に掛蒲団とて、天鵞絨、羅紗等に大造りなる縫の小蒲団を掛けたり。(中略)此の楽車は車にて引くなり。」とある。車が付いていて引いてまわる、現在の西条ミコシとほぼ同型の記述であるが、形態は別にしても、新居浜でも同様に布団太鼓に豪華な幕を飾っていたことが推察できる。この時期には既に刺繍によって見栄えのする飾り幕を「見せる」ことが祭りの中で重要な位置を占めていたことがわかる。
 なお、嘉永二年(一八四九)「新居浜浦家躰神輿太鼓錺物調帳」の中に「茂多連布団」という記述あり、新居浜の布団太鼓も江戸時代後期には掛け布団のある現在の宇摩型であったことがわかっており、その後に上幕、高欄幕を吊る型に変化している。この変化の要因については、不明である。

2001年03月11日