愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

提婆達多と女人成仏

2001年07月02日 | 信仰・宗教
久々に『梁塵秘抄』(日本古典文学全集)を読んでみた。研究対象として精読するのではない。平安時代末期に民衆が抱いていた仏教思想を知ることのできる歌謡集として、学生時代以来、時々、手に取っては流し読みしているのである。
今日、特に興味を惹かれたのは、法文歌のうち法華経二十八品の提婆品十首であった。愛媛県内の祭礼・芸能を調査すると、よくダイバとかダイバンと呼ばれる鬼が登場し、このダイバの語源・起源について究明しなければいけないと常々思っていた。法華経に登場する提婆達多がこれに関係していると推測はできるのだが、未だ論拠を得ていない。そのような中、提婆品を読んでみたのである。内容は法華経提婆達多品第十二に即したものであるが、これを平安末期の民衆が受容していたことが読みとれて面白い。
「釈迦の御法を受けずして、背くと人には見せしかど、千歳の勤めを今日聞けば、達多は仏の師なりける」
「達多五逆の悪人と、名には負へども実には、釈迦の法華経習ひける阿私仙人これぞかし」
「達多は仏の敵なれど、仏はそれをも知らずして、慈悲の眼を開きつつ、法の道にぞ入れたまふ」
この三首は、提婆達多が釈迦の教団に背いて敵対し、敗れて地獄に堕ちたのだが、実は釈迦が前世において法華経を習った師である阿私仙人が提婆達多であったというものである。そして、提婆達多は釈迦にとっては敵であったが、それにこだわることなく、成仏を保証している。悪人成仏ともいえるが、前世において法華経を受持した功徳に起因する成仏といえるだろう。
さて、祭礼・芸能に登場するダイバについてであるが、例えば八幡浜市川名津の川名津神楽では、「大魔(ダイバもしくはダイマと呼ばれる)の舞」があり、神面1人と鬼面2人の3人舞が演じられる。これは神と大魔の問答で、神の御訓によって、大魔がこれまでの悪行を悔い改めて国家の守護神となることを約束する内容となっている。神が大魔に「汝は朝家に弓を引き、切先を向けたる天若日子の如き者の子孫なるが故に、体内より牙歯が生え、角が生え、毛髪は草木の如くして、悪逆悪心を以て己が身を苦しむ。汝今こそ本体に還り、姿を改めて、王家に従い申さば、神道に尊き加護まします」と告げて、大魔は国家の守護神となるのである。「汝今こそ本体に還り」とあるのは、大魔が王家に弓を引くも、もとは王家に従っていた存在であったことを示している。仏教と神道の違いはあるが、提婆達多も、この大魔ももとは仏神の同胞であり、現世において逆らうものの、結局は成仏なり、神の加護を受けるという共通点を持っている。
法華経に見える提婆達多が変容して、民俗芸能の中にダイバとして受け入れられる歴史的過程について考察しなければ!と、改めて思った次第。
ところで、『梁塵秘抄』の提婆品は、提婆達多のことだけではなく、女人成仏についても触れられている。
「女人五つの障りあり、無垢の浄土は疎けれど、蓮華し濁りに開くれば、龍女も仏に成りにけり」
「凡す女人一度も、この品誦する声聞けば、蓮に上る中夜まで、女人永く離れなむ」
罪障深いとされる女人も、法華経提婆品を聴聞したり読誦すれば成仏したり、女人の姿を永遠に脱する、つまり罪障から逃れられるというのである。裏を返せば、女人はそのままでは成仏できないという、思想の根本に女性忌避、性差別が垣間見え、仏教における女人救済の論理を象徴する内容となっている。
そして提婆品十首のうち最後に紹介されているのが次の首である。
「常に心の蓮には、三身仏性おはします。垢つき穢き身なれど、仏に成るとぞ説いたまふ」
これは女人のことのみを指しているのか、提婆品の締めとして女人と提婆達多双方を指しているのかわからないが、おそらく、罪障を背負い、「垢つき穢き身」とされた女性が、自らの成仏を願って謡ったものであろう。
女性忌避・性差別の思想に、仏教が多大なる否定的役割を果たしたのは明らかであると、提婆品を読んで痛感させられた。

2001年07月02日