『古事記』下巻允恭天皇条に木梨之軽太子の話が載っている。允恭天皇の亡き後、九人の皇子のうち、一番年上の木梨之軽太子が皇位を嗣ぐことになっていたが、同母(忍坂之大中津比売命)妹である軽大郎女をひそかに愛しており、インセスト・タブーを犯していた。木梨之軽太子が詠った歌に次のようなものがある。「あしひきノ山田を作り山高み下樋を走せ下娉ひに我が娉ふ妹を下泣きに我が泣く妻を今夜コソは安く肌触れ」。異母の場合は許されたが、同母兄妹の関係はタブーであったため、百官と天下の人等は軽太子に背いて、弟の穴穂命を支持するようになる。軽太子は大前小前宿禰大臣の家に逃げ込むも、結局、宿禰は軽太子を捕らえ、穴穂命に差し出した。そして軽太子は「伊余ノ湯」(現在の愛媛県松山市道後温泉)に流罪となったのである。流される際に軽太子は次の歌を歌う。「王を島に放らば船余りい帰り来むゾ我が畳みメ言をコソ畳ト言はメ我が妻はゆメ」、つまり自分は島に流されても必ず帰る。私の畳を大切にしておいてくれ。畳と言うが、私の妻(軽大郎女)のことだ。妻よ身を謹んで過ごせ、という意味である。この歌については、『日本思想大系 古事記』に真福寺本を底本として活字化されているが、そこには「王を島に放らば」は「意富岐美袁 斯麻尓波夫良婆」と記されており、「波夫良婆」(ハフラバ)と表現されている。「ハフル」ということであり、思想大系ではこれに「放つ」の語をあてているが、ハフルというと、「葬る」をすぐに思い浮かべてしまう。放逐の意味であろうが、単なる都からの放逐ではなく、この世からの放逐を示唆しているといえるのではないだろうか。日本国語大辞典に引用されたものでは、観智院本名義抄に「殯」の文字も「ハブル」とされている。軽太子は、自らの歌で「ハフル」という語を用いているが、これは一種死を意識して詠んだと考えることはできないだろうか。軽大郎女に対して、必ず戻るから身を謹んで過ごすように伝えていることで矛盾を感じるかもしれないが、結局、待ちきれずに「君が往き日長くなりぬ造木ノ迎へを行かむ待つには待たじ」と言って、軽大郎女は兄軽太子を追っていく。そして二人は出会い、軽太子は「隠り国ノ泊瀬ノ山ノ大峰には幡張り立てさ小峰には幡張り立て大小にし仲定める思ひ妻あはれ槻弓ノ臥る臥りモ梓弓起てり起てりモ後モ取り見る思ひ妻あはれ」と歌う。また、次のように歌い二人とも自ら死を選んだのである。「隠り国ノ泊瀬ノ河ノ上つ瀬に斎杙を打ち下つ瀬に真杙を打ち斎杙には鏡を懸ケ真杙には真玉を懸ケ真玉なす吾が思ふ妹鏡なす吾が思ふ妻有りト言はばコソに家にモ行かメ国をモ偲はメ」。「隠り国ノ」は泊瀬の枕詞で、山に囲まれて隠っている場所を意味し、泊瀬は、現在の奈良県桜井市初瀬町のあたりで、古くから葬送の場とされていた。泊瀬(はつせ)は「果てる場」とも解釈できるが、いずれにせよ軽太子、軽大郎女は死を選択してしまう。軽太子が伊予に流される際に「ハフル」の語を用いたのも、最終的に、二人の死を予感していたのかもしれない。
また、次のような解釈もできはしないか。つまり島(四国)に流されるということが「ハフル」ことであれば、都から見ると四国が空間的に死の世界だという認識があったのではないかということである。以前、『今昔物語集』の長増法師の説話を紹介した文章でも取り上げたとおり、四国が異界であると古代人が無意識のうちに考えていた可能性があるという仮説である。後の四国遍路の成立の要因となった異界性が、木梨之軽太子の神話にも垣間見ることができると言えまいか。
2001年07月08日