<穴井について>
江戸時代~明治22年までは穴井浦で、もと宇和島藩領であった。明治22年に真穴村になる。昭和30年に八幡浜市に合併し、現在に至る。「大成郡録」(宝暦年間)によると家数79軒、人口701人、牛39、馬3、鰯網7帖、網船14、荷船1、小舟59。江戸時代は鰯漁が盛んであったことがわかる。愛媛県編年史8によると、天明6年に、穴井本浦で大火、226軒を焼失したという記録がある。明治20年代末に綿織物業が八幡浜から導入され、大正元年には工場5、綿布4万3400反を記録している。現在は、座敷雛で有名である。
<伊勢踊りについて>
穴井歌舞伎は長命講伊勢踊りの「ワキ踊り」と呼ばれていた。伊勢踊りは八幡浜市穴井の神明神社の春季大祭、旧暦1月11日をはじめ、毎月11日に行われる。行事次第は次の通りである。午前10時に、拝殿内で第1回目の伊勢踊りが奉納される。奉納時間は約15~20分。10時45分に2回目を奉納。この時は円陣の中のご婦人達はいない。お詣りにきたついでに歌を歌い、一回目が終わると下山し、食事の準備をする。11時25分に3回目奉納。その後に宿元で昼食をとる。食事は講員の婦人達が宿元で準備する。昼食後、午後1時20分に4回目奉納。2時に5回目奉納。2時半に6回目奉納して終了する。午後4時に再び宿元に集まり、直会が行われる。この時に盛り上がって歌舞伎の名場面を演じる人もいたという。6時すぎに散会する。
伊勢踊りの芸態については、男ばかりの踊り手が拝殿の中央に円陣をつくる。神前に向かって右の壁際一段高くなった場所に太鼓打ち1人、残りの男全員唄い方として座る。女性講員は輪の中心にかたまって、神前に向かって座り、唄い方に合わせて歌を歌う。踊り手の装束は白の千早に括り袴、黒烏帽子に白足袋をはき、青竹につけた白幣を持つ。踊りは、輪になったまま神前の方向にむき、両手で御幣を掲げて礼をする。歌が始まると、順まわりの進行方向に向き、御幣を胸元でささえて、上の句が歌い終わるのを待つ。歌が下の句がはじまると、唄い方に合わせながら、御幣を振りながら進む。踊り自体は平易であり、人目を引きつける芸能ではない。
<長命講伊勢踊保存会>
明和2年(1765年)に川上太郎兵衛より習うと県指定文化財の申請書にある。昭和35年に県指定重要無形文化財「長命講伊勢踊り」となる。明和2年以降、毎月11日に行う。少し衰えて年4回ほどになっていた。しかし、安政4年に御神殿を増築した際に、神職薬師神氏と庄屋により、講を再組織、現在にいたる。神職、大世話係1名、小世話係5名、内1人が宿元をつとめる。男女とも50歳以上(42歳という人もいる)の希望者は誰でも講員になれる。(安政年間、老人仲間入りが50歳だった?)現在は、ほとんどは60歳以上で実質70歳以上の方が多い。事実上、長命講=穴井老人クラブとなっている。
<南予地方の伊勢踊りの事例>
宇和島市下波:神明神社秋祭り、9月16日小学校2~6年生の男子が踊る。実際には少子化で女子も参加する。男子6人が女装。菅笠をかぶり、右手に御幣、左手に扇。派手な衣装。人目をひきつける。これは後に発展した形。穴井の方が素朴で、原型をとどめているといえる。かつては、祭りの余興として地芝居があったという。大分の杵築から師匠を招いて本格的にやった時もあった。華やかな伊勢踊りの例といえる。
三崎町二名津:2月10,11日。踊りは家祓い。新築した家、不幸のあった家などの希望者で行う。天明元(1781)年に集落に火災があり、火鎮めのために始まったといわれる。三崎町三崎にも伊勢踊りがあり、42歳の厄年の者が踊る。厄祓いを主体とした伊勢踊りの例である。
<穴井伊勢踊り指定の理由>
1,当時の形をそのまま伝承していること。2,信仰団体として古い歴史を持つこと。3,他の芸能のように、観衆主義、技術、技巧主義になっていない。これが県指定文化財の申請書に記されている。
<穴井歌舞伎>
天明3年(1783)正月11日からは御旅所の神賑わいとして芝居奉納されたのがはじまりといわれる。伊勢踊りの和気踊り。対外的に「穴井芝居」、「穴井歌舞伎」と呼ぶ。長命講の者が伊勢神宮参拝の際に、大坂、琴平等で歌舞伎を見物していたと思われる。衣装の寄進は主に厄年の者。引幕は明治初期の物が現存。幕は大坂から、衣裳は京都から購入したものである。
<「和気」の意味>
岐阜県益田郡萩原町上呂の久津八幡宮の祭礼記録「久津八幡宮祭礼日記」の記述に、「一、獅子、一、和気狂言 羅生門、一、神楽(後略)」とある。つまり、獅子のワキとしての狂言なのである。穴井でも本筋は伊勢踊りで、その脇的存在としての歌舞伎なのである。
<「踊り」の意味>
江戸時代における芝居の統制を『宇和島・吉田両藩誌』等をもとに見てみると、宝永6(1709)年6月「芝居物等一切向後停止申付候事」、宝永6(1709)年9月 「歌舞伎芝居物向後停止申付候事」とあり、芝居、歌舞伎については藩の統制を受けていた。寛政11(1799)年11月の吉田藩の歌舞伎統制(『三瓶町誌 下』336頁)によると、「在々ニおいて神寺祭礼之節或ハ作物虫送祭なとと名付、芝居見せ物同様の事を催し、衣裳道具等をも拵、見物人を集、金銭を費し候義有之由、相聞不埒之事ニ候。(中略)依而自今以後遊芸歌舞伎、浄瑠璃、おどり之類、惣而芝居同様之人集堅く制禁たるべく候。此度右之通相触候上ハ、若、不相止ニおいて無用捨、急度咎有之者也」とあり、現在は穴井歌舞伎と言うが当時「芝居」とは称せず、「和気踊り」と言ったのは、村民が行っているのはあくまで「踊り」であり、「芝居」・「歌舞伎」ではないという、対外向けのカムフラージュであったと考えられる。
なお、明治時代に入って、県が明治6年1月に小唄三絃遊芸営業の外禁止の件(一種の風紀指導)で「一、歌舞伎狂言ハ愚民ニ勧善懲悪ヲ教ルノ近道ニモ候ヘハ淫娃醜態ノ風無之自然忠孝節義ノ事跡ヲ興行可為致事、但白昼ハ面々家業有之候間夜中興行可致事」と指導したり、明治6年8月、諸興行物規則税則改正の件「税則 一、相撲、芝居、能等ノ類 一日七十五銭」とあるように、歌舞伎は藩や県により規制されたものであり、村では実質的に歌舞伎を演じていても地域行事の中の「踊り」として、お上の眼をそらせようとしたのだろう。
<穴井歌舞伎の起源>
起源伝承については、二百年前に集落が火災。寺にまで飛び火。赤い下着をつけた女性が猛火の中飛び込み、本尊を運び出す。その女性は大神宮の祭神天照大神であろうと村の人は考える。そのお礼に舞台を建て、神に奉納するようになった(『ふるさと賛歌』4より)とか、県指定文化財申請書には天明3年(1783)に創設とある。実際の所は不明である。なお、衣裳保存の木箱銘に「安政四歳」(1857)と記されていることから、江戸時代末期には盛んであったことがわかる。なお、地元の神明神社の拝殿には参宮絵馬がある。安政4年のもので歌舞伎「勢州阿漕浦」が描かれた絵馬である。当時の地元の者が歌舞伎に興味を持っていたことを示す資料ともいえるだろう。なお、史料として残っている「芸題録」では慶応3年(1867)の記録が最も古く、現在残る舞台用の引幕では明治6年(1873)のものが最古である。
<上演日>
旧正月11日に神明神社の春祭り(伊勢踊り)にて演じられ、後に旧正月15日の天満神社の春祭りでも演じられている。もともとは11日のみと推測される。「芸題録」によると慶応3~明治18年までは11日のみである。明治19年以降は11,15日両日となっている。これは観客の増加により、一日では対応でいなくなったのではないだろうか。
<手附・三味線>
住所の明確な者のみ、ここで挙げてみる。
手附(振付け)
八幡浜、鶴吉、明治19
(出身地、氏名、穴井に来ていた時期)
宇和島旧城下、瀬川寿幸、明治20~21
広島市、坂東周調、明治22~29
別府稲荷町、嵐梅香、明治34
土佐、嵐三津十郎、明治35
宇和島戎町、坂東和吉、明治35
楠浜(川之石)、斉藤百太郎、明治35~大正12
大洲町中村、市川海老治、明治36~38
別府町塗師町、実川玉太郎、明治39
西国東郡真玉村、市川雀三郎、明治40~45
三味線(弾語)
八幡浜カ、鶴沢市松、慶応3~明治3
八幡浜、鶴沢勝七、明治4~29
川之石、野沢勝七、明治27~30
川之石、野沢勝平、明治28~31
川之石、野沢勝之助、明治31~大正12年
御荘、竹本花牒、明治45
手附は宿元に宿泊し、正月から上演終了まで約2週間滞在したという。
<名優>
水地定次郎(遊芸稼人鑑札を持つ。)、井上栄太郎、山下徳市、中広藤太、石崎久一、竹本久右衛門、薬師神新一、西川藤吉、竹本藤右衛門、中村正行など。中村藤市(浄瑠璃)、来留島林渡(浄瑠璃)
<舞台>
神社の御旅所に舞台があったが、昭和8年に火災にあう。その後、昭和12年に穴井公会堂落成。網元中江為松が寄附集めに尽力したという。舞台幅は15メートル強(7間半程度)。舞台左に花道を設置。花(祝儀)の紙を貼る。舞台右手前に浄瑠璃、三味線が位置する。
<観客>
桟敷:舞台中央前に中桟敷があり、地区の有力者が座る。その後ろの席を大くじで、穴井7常会(北浦、須賀川、中浜、中浦、上浦、本浦、南浦)の位置を決める。そして小くじで、各常会の位置の中で前後を決める。なお、舞台右脇に上座(あげざ)があり、有料であった。周囲に他地区からの観客が位置する。大島、三瓶、川上、双岩からも来ていた。
<青年団活動へ>(民俗行事からの乖離、そして消滅)
皇紀2600年奉祝演芸大会にて上演。以後、青年団による演芸大会にて歌舞伎上演。ただし、演芸大会では現代演劇、楽器演奏に駆逐され、昭和20年代後半以降、歌舞伎は演じられなくなる。
*以上は、平成13年6月12日に八幡浜市穴井公民館で地元の方々を対象とした講演で話した内容をまとめたものである。
2001年07月07日