愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―③

2008年04月17日 | 年中行事
3 八朔の原義―呼称からの検討―
①「朔」・「ツイタチ」について
八朔習俗を考える場合、その呼称を今一度再検討しておく必要があると思われる。民俗語彙としての検討は当然のことであるが、そもそもの「八朔」の語義や、「朔」、その訓である「ツイタチ」などは、これまでの八朔関連の研究では触れられることのなかったこともあり、ここで考察してみたい。
まずは「朔」についてである。『大漢和辞典』(巻五、一〇四五頁)には「朔」の様々な意味を紹介しているが、筆頭には「ついたち。陰暦で月の第一日」とある。そこでの引用文献として〔説文〕に「朔、月一日始蘇也」、〔疏〕に「月之始日、謂之朔」とあり、確かに月初めの日を「朔」としている。ただ、〔釈名、釈天〕に「朔、蘇也、月死復蘇生也、朔、月初之名也」とある。「朔」はもともと蘇生の意味があり、天体の月が蘇生する月初めを指すが、ここでは厳密に「一日」を指しているわけではない。『大漢和』での他の意味には、「はじまる。生まれる。」(〔注〕「朔、生也」)、「はじめ。」(〔注〕「朔、亦初也」)とあり、また、「あさ。夜明け。」(〔釈文〕「朔、旦也」)とある。その他にも「きた。北方。」(〔釈文〕「朔、北也」)とあり、方角での「はじめ」の意味から「北方」を指す言葉としても使用されている。つまり、八朔の「朔」の原義は「はじめ」「生まれる」であり、月で考えた場合に「月(天体)が蘇生する月(時間)のはじめ」となって、二次的に「月の第一日」として定着したものと考えられる。
この「朔」=「月の第一日」が日本に伝来したのは、飛鳥時代の暦法の導入期もしくはそれ以前といえるが、「朔日」の記述は『日本書紀』の中でも一般的に用いられており、また「告朔(こうさく)」(毎月朔日に諸司の進奏する百官の勤怠、上番日数を記した文を天皇が閲覧した儀式。天武天皇五(六七六)年九月初見。)という儀礼があったように、日本古代では朔日を儀礼日としていた。ただし、告朔はのちには正月・四月・七月・十月の月初めにのみ行われ、次いで廃れていくが、ここでは八月朔日は含まれないのである。(ちなみに『大漢和辞典』にも「八朔」について中国の文献は引用されず、日本中世の『看門御記』の記事が紹介されている。)六国史や律令等を見る限り、日本古代においては公には八月朔日は重要な節日として扱われていなかったといえる。
なお、『日本書紀』等に見られる「告朔」の訓は「ついたちもうし」であるが、これが古代において一般的であったかは未調査である。中世以降の紀の解釈の中で読まれた訓である可能性もあり、天武天皇期から「告朔」=「ついたちもうし」であった確証はない。
 次に「ツイタチ」の意味であるが、『日本民俗学大系』七(平凡社、一九七六年)所収の和田正洲「暦と年中行事」(三三頁)には、「ツイタチは月立ちで月の出現、ツゴモリは月ごもりで月のかくれることを意味するといわれている」、「日本のツイタチは古典では三日月なのか半月なのか、満月なのかわからないが、とにかく正朔を月初として重んずる暦法が輸入されて、暦法の月初に合わせ、月のみえない朔を月初として重んずるようになったのであろう。」と指摘している。『日本国語大辞典』によると、①月の初め頃、月の上旬、初旬(「ついたちころ」源氏・落窪にあり、月初めの十日間ほどを指している)、②月の第一日、以上の二つの意味がある。必ずしも「ツイタチ」=「月の第一日」ではなく、源氏物語や落窪物語での用例を見ると、月の初旬の約十日間を指す場合もある。やはり和田正洲が指摘するように、「ツイタチ」の語源は「月立ち」であり、暦法導入以後に、「朔(月(天体)が蘇生する月(時間)のはじめ)」を「ツイタチ」と呼ぶようになったのだろう。
 このように見てくると、「朔」も「ツイタチ」も原初的には月の始まりの頃であって、必ずしも月の第一日目というわけではなかったと言えるのではないか。実は、これについての疑問の発端は愛媛県内に見られる八朔習俗に関する呼称を調べていて抱くようになったものである。すなわち、愛媛県三崎町正野や、一本松町正木では「八朔ノ入り」や「八朔入り」という言い方をするが(文化庁編『日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)』四二五頁)、これは、三崎町や一本松町などの南予地方に広く見られる二月一日の呼称である「二月入り」と対応してのものであろうが、ここでの「八朔入り」の「八朔」は、「入り」と使われるように「八月一日」の一日間を指すというより、もう少し長い期間を指すのではないかと考えたのである。「二月入り」に対応するとすれば、八月一ヶ月間となるが、これでは「朔」=「はじめ」の語義から考えて適当ではない。上記で見てきた「朔」・「ツイタチ(月立ち)」の用例からして、八月上旬を指すのが適当と言えるのではないだろうか。
これに関連するものとして、「ハッサクノツイタチ(八朔一日)」という呼称がある。『日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)』から行事名称を拾ってみると、岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県・新潟県に広く見られ、茨城県多賀郡十王町や、神奈川県・富山県・石川県にも一部見られる。また、九州の佐賀県杵島郡大町では「八朔チータチ」と呼んでいる。一般的に考えれば、「八朔」にすでに一日(ツイタチ)の意味が込められているのに、これらの呼称は、なぜあえて八朔一日とするのか疑問である。やはり、愛媛県南予地方の「八朔入り」から推察したのと同様に、八朔は八月上旬を指しており、その一日目として「八朔一日」と呼んだのではないか。
八朔行事には、全国各地で種々の行事内容があり、盆や二百十日、十五夜、社日などと類似・交錯しているが、「八朔」がもともとは一日ではなく、約十日間という、より期間であったと仮定すれば、これらの類似・交錯が現れるのは当然といえる。(ただし、この点は実証性が薄いし、問題点も多い。まず日本で「朔」=月の上旬とする事例があるのかどうか調べる必要がある。また、八朔が一日間ではないと実証できる民俗事例も提示しないといけない。)

②「八朔」について
次の問題は、なぜ「八朔(ハッサク)」という呼称が存在するのかということである。八月一日が行事日であるから「八月朔日」を縮めて「八朔」としたのであれば、「正朔」や「二朔」、「六朔」などの名称があってもよさそうなものであるが、そのような事例は見聞できない。八月一日だけ月数と「朔」が合わさった呼称となっているのか疑問といえる。ただし、月初めの一日が行事日で「朔日(ツイタチ)」の呼称が付く事例は多く、二月一日の初朔日(ハツツイタチ)や太郎朔日(タロウツイタチ)、四月一日は数少ないが岩手県で「山見の朔日」(『日本民俗学大系』七、二四二頁)という。五月一日も数少ないが鳥取県で「豆炒りの朔日」という事例がある。六月一日は「氷の朔日」・「鬼朔日」、七月一日は「釜蓋朔日」、十二月一日の「乙子の朔日」など、二月、六月、十二月一日は、広く多岐にわたった行事が行われるので「○○ノツイタチ」の呼称が多くある。八月一日には「ハッサクノツイタチ」・「タノミノツイタチ」・「タノモノツイタチ」という例があり、二、六、八、十二月の共通性が見られるといえるが、「二朔」「六朔」「十二朔」という呼称はない。これは何を意味するのだろうか。
ちなみに、江戸時代には「三朔日(さんついたち)」といって、三つの朔日を指してこのように呼んでいた。その三つとは正月元日、六月朔日、八月朔日の式日である。「三朔(さんさく)」とも言われ、元日は新年の賀儀、六月は氷室の節供、八月は八朔の御祝儀があり、それを総称していたのである。なお、東北地方など民間においても二月、六月、八月の朔日を三朔日と呼ぶところがあるという(以上、『国史大辞典』第六巻、五八三頁、中村義雄執筆、吉川弘文館、一九八五年を参照)。
 いずれにせよ「八朔(ハッサク)」の用例について、文献史料を基に考えてみる必要がありそうである。文献史料における「八朔」の初見は、管見の限りでは、『看聞御記』応永二五(一四一八)年八月一日条の「八朔風俗、千秋嘉兆、幸甚々々。仙洞御憑、付永基進之。」に見える「八朔風俗」である。また、『康富記』文安五(一四四七)年八月一日条で、「八朔礼の事、何比より之有る事哉の由、尋ね申し候の処、後鳥羽院の末つ方より出来歟。但し見る所慥なることを得ず。所詮先代より沙汰初歟。鎌倉より事起るの由語り伝うる所也」云々とあり、ここでは「八朔礼」と出てくる。十五世紀前半以降の史料には「八朔」は頻出するのである。
ただし、『吾妻鏡』宝治元(一二四七)年八月一日条には「恒例贈物の事、停止す可きの由触れらる」云々とあり、鎌倉幕府において、この日に将軍に対して贈物することが禁止されている。『弁内侍日記』の同年八月一日の記事には「中宮の御方より参りし御たき物、世の常ならず匂美しう侍りしかば」云々とあり、この日に宮中において天皇に対しても物を献上する慣習があったことが推察できる。また、鎌倉時代末期の正和三(一三一三)年の『花園天皇宸記』に当日「自所々種々物等進之、是近代之流例也」とあるように、この八月一日の贈物習俗は、鎌倉時代中期から末期にかけて流行したものといえる。(なお、八朔に関する中世の文献史料については、田中久夫「八朔考―年中行事に占める位置について―」や西角井正慶編『年中行事辞典』六三八頁に詳しく、それを参照にした。)ただし、この時期の史料には「八朔」とは見えず、その用例は十五世紀にまで下るのである。弘長元(一二六一)年の「関東新制条々」の中に「八月一日贈事々」とあり「近年有此事、早可停止」と武家において十三世紀半ばに流行していたが、幕府によって停止が命じられている(註 本郷恵子「八朔の経済効果」(『日本歴史』六三〇号)より)。ここでの呼称は「八月一日贈事」であり、「八朔」とされていないことは興味深い。鎌倉時代から、贈答の習慣は八月一日に一般的に行われていたが、当時はこれを「八朔」とは呼ぶことはなく、行事がさらに定着する室町時代に入ってから「八朔」という一般呼称が成立していったのではないかと推測できるのである。
参考までに、室町幕府の八朔の具体的な儀礼内容については、二木謙一『中世武家儀礼の研究』に詳しい。その内容を引用・紹介しておく。明応年間頃(一四九二~一五〇一年)に伊勢氏によって書かれた『年中定例記』などの記録から、次のようにまとめている。「八朔の贈答が幕府の公式行事として定着化した義満期から義教期の頃までは、朔日、二日、三日の三箇日間にわたって、同じ対象同士両三度、三回もの贈答がくり返されるのが例であった。が、それ以前と、嘉吉以降は朔日だけ一回の贈答であった。七月中に幕府から沙汰が出され、公家衆、武家衆等は七月末日には贈答の品々をとり揃える。晦日の午後のうちに届けられることもあったが、多くは八月一日の午前中に届けられた。幕府は伝奏を通して天皇、上皇に献じ、内裏や仙洞からも返礼がなされる。幕府から朝廷に献じられる品は、はじめは種々様々であったが、義政期頃から太刀と馬に定まったようである。幕府へは摂家、門跡、公家衆、大名、外様、御供衆、惣番衆、奉行等もことごとく進上し、そのほか地下衆、職人、牛飼、、の者までが、それぞれ似合の物を献じた。毎月一回は公家衆、武家衆等の幕府への参賀、いわゆる朔日出仕の儀が行われるのが例だが、八朔当日は、憑進上の人々で混雑するので、朔日出仕の儀は止められることもあった。幕府では御憑総奉行伊勢守の指図のもと、奉行人が応待にあたり、右筆が献上品をチェックする。当日料理を掌る大草家からは、将軍家に粥に黒焼にした薄を入れた尾花粥が供せられ、出仕の人々には殿中で祝酒が振舞われる。将軍からの返礼の品は、地下や下級の人々には、進上品を持参した使者、あるいは当人に対して即時に奉行人から渡される。摂家や上流公家衆には奉行人、大名には同朋衆が使者となり、二日以降八月中旬頃までに、八月朔日を日付とした折紙の礼状を添えて返されるのが例であった。返礼は過分に行われるのが常で、返礼の品は奉行が調える。その際、形式的であるが、将軍がこれに目を通す儀があり、これを「御はからい」と称した。こうして八朔の贈答が完了すると、残った品々を、奉行、右筆、同朋衆や女中衆など、この行事に尽力した者達が鬮によって配分し、この年の八朔行事は終りとなる。」この説明により室町幕府の八朔の概況がわかるが、儀礼は八月一日を主体であるが、贈答完了は中旬頃であり、一日間のみの行事ではなかった。また、粥を供せられることも興味深い。また、馬節供に関連すると思われる馬の贈答は、義政期に定まったもので、それ以前は必ずしも一般的ではなかった。以上が二木著の内容である。