愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―④

2008年04月18日 | 年中行事
③タノミ・タノムについて
次に八朔を「タノミ」「タノム」「タノモ」という場合が民俗事例に数多いことから、この「タノミ」等についての文献を見ていくこととする。頼み・憑・田実・田面などと表記される。この表記については、伊勢貞丈が天明四(一七八四)年までに著した『貞丈雑記』(平凡社東洋文庫)には、元来は田の実といって米穀の成就を祝うことがあって後、頼むの縁語を用いることにより各々お互いに頼む人へ物を贈り、例えば君臣が和合し、睦まじくする祝い、として今世では式日の日なったとしている。そして「正礼にもあらず、堅固世俗の風儀也」とあり、八朔は民間に発した公的な由緒のない行事であるとしている。タノミには「田の実」・「頼み」の二義があることは江戸期にはいわれている。
ところがタノミの解釈は既に南北朝期に見られ、『空華日工集』応安三(一三七〇)年八月一日条に「古人以田実初収相餉、謂之恃怙、和語相近云々」とあり、初穂を贈りあうことから「たのみ」と称すると説明されている。同時に「和語相近」と「恃(たの)む」つまり物品を贈って親近する意味と推察できる解釈もしており、南北朝期にはすでに「田の実」・「頼み」の説明がなされているのである。同時に「八朔」の呼称が登場する以前の南北朝期に「タノミ」と称されていたこと自体も興味深い。つまり文献の上では鎌倉期の「八月一日贈事」、南北朝期の「タノミ」、室町時代(十五世紀半ば)の「八朔」という呼称の時代的変遷があったことを指摘できるのである。
実は室町幕府においては、職制として「御憑総奉行(おたのもそうぶぎょう)」が設けられていた。和田英松著・所功校訂『官職要解』(三二三頁、講談社、一九八三年)によると、御憑総奉行とは「八月朔日、頼(たのも)の祝という幕府に贈遺献納のことがあったので、それを掌る。また御憑使があって、遺物(おくりもの)の使者を勤めたのである」とあり、同書に紹介された鎌倉幕府の職制にはこの御憑総奉行は見られない。鎌倉幕府では先に挙げた『吾妻鏡』や「関東新制条々」の記事にあったように、八月一日の贈物慣習は禁止されており、幕府の職制に組み込まれることはなかった。しかし室町幕府では積極的に八月一日の贈物慣習を取り入れ、それを掌る職制を新たに設けたのである。このことは二木謙一氏が「室町幕府八朔」(『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、一九八五年)において、詳細に述べられており、鎌倉幕府においては公式行事として認められていなかったこの儀式が、室町幕府では定例の行事として定着していて、公家においてもこの慣習を盛んに取り入れていたことを指摘している。また、山田邦明「鎌倉府の八朔」(『日本歴史』六三〇号、二〇〇〇年)では、室町時代には、関東の鎌倉府から古河公方や北条氏へと八朔儀礼が継承されていることを明らかにしており、武家や公家の社会でかなりの広がりを見せていたのである。
この流れを見ると、八月一日の贈物慣習は室町幕府において定例化し、職制として定着することに起因して「八朔」という呼称が成立していったと考えられる。そして先に挙げた『康富記』文安五(一四四七)年八月一日条では「八朔礼の事」とあり、また、関東を直轄した鎌倉府の年中行事等を記した儀礼書で、享徳五(一四五六)年成立の「鎌倉年中行事」では「八朔御祝トカウス(号す)」とあり、具体的には「八朔礼」や「八朔御祝」と称されていた。
 さらには、『親元日記』文明十二(一四八〇)年八月朔日条に「八朔総奉行東山殿御奉行伊勢守右筆」とあったり、『沢巽阿弥覚書』に「八朔奉行蜷川蔵人」とあるなど、十五世紀後半になると御憑総奉行を「八朔奉行」と称する史料が散見できる。これは「八朔」の呼称が定着したため、それまで憑(タノモ)奉行の別称として用いられたのではないだろうか。
 さて、「頼み」の意味は何なのであろうか。単に頼みごとをするということではないようで、その意味について考えてみたい。「たのみ」を『日本国語大辞典』で見てみると、第一には、竹取物語の「さりともつひに男あはせざらんやはと思ひて、頼をかけたり」とあるように、力になるものとして、たよりに思うことの意味がある。第二に、物を買うときの手付金。また、結婚のしるしとして送るものという意味がある。『日葡辞書』に「Tanomi(タノミ)<訳>職人に前もって渡す手付金。また結婚のしるしとして送るもの」とあり、それが後に「結納」や「言入」を表す言葉になる。『貞丈雑記』一には「いひいれを古はたのみとも云ひし也。是は舅とたのみ、妻とたのみ、聟とたのみ、夫とたのむの祝儀なる故、たのみと云。たのみは聟より舅へ祝儀物を送り、舅よりも聟へ祝儀物を送り、両方より取かはして、互にたのむ儀なり、是古法なり」とあったり、浮世草子・本朝桜陰比事-三・六に「十五に成るむすめと縁組取持頼みの祝儀おくらせ相済しける」とあるように、「たのみ」は結納を意味している。また、「たのむ」は日葡辞書に「Tanomuno(タノムノ)ツイタチ<訳>八月一日」、文明本節用集「憑 タノム 倭俗云八月朔日也」とあり、当然、八月一日をあらわす言葉としても登場する。
また、平安時代初期の訓に関する史料である「大唐三蔵玄奘法師表啓平安初期点」には「虞(おもひはか)り无きに皇霊を憑(たの)みて以て遠きを往き」とあり、たよりにする、あてにするの意味で用いられている。つまり、たよるものとして身をゆだねるということである。また更級日記に「たのむ人の喜びのほどを心もとなく待ち歎かるるに」とあるように、それが帰依する、信仰するの意味にもなる。これと同様の用例は、源氏物語―明石にも見られ、「住吉の神のたのみはじめたてまつりて、この十八年になり侍りぬ」とある。
次にタノミ・タノムの漢字である「憑」と「頼」を比較してみたい。『大漢和』巻四、一一八一頁によると、「憑」は①たよる。たのむ。(〔集韻〕「憑、依也」)、②つく。のりうつる。(〔唐書、葉法善傳〕「此為魅所憑」)、③よせる。託する。(〔注〕「綜曰、憑、依託也」)などの意味が紹介されている。『日本国語』でも「憑」は、①たのみにすること、よろどころとすること、②霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。などと出ている。「頼」については『大漢和』巻十、七九二頁によると、①たのむ。(〔広雅、釈詁三〕「頼、恃也」)、②かうむる。(〔注〕「頼、蒙也」)、③利便とする。(〔注〕「頼、利也」)などの意味があり、たよったり、たのんだりするとしても、たのむ側の「利」を前提に考えるたのみ方といえる。「憑」には「つく」、「よせる」とあるように、たのむと同時によりかかり、一体化するという意味があるといえる。これが「頼」と「憑」の大きな違いである。
ちなみに、仏教用語で「依憑(えひょう)」という言葉があるが、これは『日本国語』では「人によりかかり、頼みとすること。」ある。ただし日蓮遺文の立正観抄には「伝教大師云、依憑仏説、莫信口伝」とある。「依憑」はよく使われる言葉で、最澄『依憑天台集』や日蓮の『依憑集』と著作名にも使用されている。
以上のように見てみると、「たのむ」には、依憑と、依頼との二つの側面があり、依頼は、我執を捨てることなくたのむことで、我執を捨てて、対象(相手)によりかかりたのむことが「依憑」である。つまり、中世のタノミが「頼」ではなく「憑」が多く用いられることは、贈答関係による一体化を前提としているのだろう。つまりは「関係を構築して一体化する」ことが「たのむ」の原義といえる。

④呼称からの推察―八朔習俗の上昇・下降―
 以上、「朔」、「ツイタチ」、「八朔」、「タノミ・タノモ」の用例について文献史料を基礎として、それらの語義や時代的変遷を見てきたが、問題は武家・公家社会と民間との影響関係である。この点については和歌森太郎が「八朔考」(昭和十七年、のち『日本民俗論』所収)にて現代の伝承を中世の諸文献上の八朔にまで遡らせて比較し、それが農村に基盤を持つ武家の主従間の贈答に源を発すると述べており、また、平山敏次郎が「八朔習俗」(昭和二四年、のち『歳時習俗考』法政大学出版局、昭和五九年所収)で、行事の沈下・上昇を論じ、年中行事のみならず、民俗文化の性格を考える上でも大きな問題を提供している。これを受けて田中宣一『年中行事の研究』(五五頁)では「近代の八朔行事の内容には、もともとから農村に伝承されていたと思われるものと、いったん宮廷行事の影響を受けたのちに民間へ下降していったかと思われるものが混在し、各地で多彩なものとなっている」と述べている。
この「上昇・沈下」についてであるが、この点は田中久夫「八朔考」に詳しい。先に挙げた『花園天皇宸記』に「近代之流例也」とあるように贈答の慣習が新しいと述べ、また元亨二(一三二二)年八月一日条では「諸人進物如例、蓋是近古以来風俗也、於人無益、於国非要、尤可止事歟、然而強又非費、自然行来歟、猶不可然事也」と新しく流行してきた贈答の風を批判している。この花園天皇の記事からは八朔の贈答行事が従来の貴族社会に見られなかったのであり、鎌倉時代に新しく生まれたものであることを示している。また、先に挙げた『康富記』文安五(一四四七)年八月一日条も「八朔礼の事(中略)鎌倉より事起るの由語り伝うる所也」とあり、八朔にあたり物の贈答を行う風習は鎌倉時代頃に鎌倉から新たにやってきたものであることを強調している。そして、中世貴族の「憑」には農作を祈るという側面がない点が農村の「憑」とは内容が大きく異なっており、結局、中世の「憑」は農村の八月一日頃に行われていた「作神祭」の供物の贈答が、儀礼化、形式化したものであると結論づけている。
 ただし呼称の面では、文献史料で見る限り、「八朔」という呼称は室町時代に武家・公家社会で定着したものであり、もし民間でも「八朔」の呼称が一般的であれば、鎌倉期から南北朝期かけて使用されたのであろうが、その類の史料は見られない。現在の「八朔」の呼称は室町期の武家・公家社会を端に広がっていったと考えるべきだろう。
 さて、「八朔」呼称の民間への広がりを示すものとして、明治初期の祝祭日(田中『年中行事の研究』二一九頁にも紹介されている。)の変遷が興味深い。所功『日本の祝祭日』(PHP研究所、昭和六一年)によると、明治三年四月二七日布告によって祝日は、大正月(正月元日)・小正月(一月十五日)・上巳の節句(三月三日)・端午の節句(五月五日)・七夕の節句(七月七日)・八朔田実の節句(八月朔日)・重陽の節句(九月九日)・天長節(九月二二日)と決められ、この中に八朔が含まれている。「八朔田実」とあるように、この呼称は一般的なものであった。そして太陽暦導入にあたり、改暦直後の明治六年一月四日太政官布告では、「今般改暦ニ付、人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ 神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」とあり、五節句が廃止されている。ここで八朔田実の節句も廃止となったのか不明であるが、明治六年十月十四日布告で祝祭日の再規定がなされ、元始祭(一月三日)・新年宴会(一月五日)・孝明天皇祭(一月三十日)・紀元節(二月十一日)・神武天皇祭(四月三日)・神嘗祭(十月十七日)・天長節(十一月三日)・新嘗祭(十一月二三日)となっており、そこでは八朔田実の節句は除外されている。
 これは明治三年のものは前代の江戸時代における祝祭日を基礎として制定したもので、江戸期には八朔田実が節句として認められていた。それが明治六年の布告ではそれまでの節句は公式には省かれ、天皇家関係や神嘗、新嘗祭など宮廷行事に基づいた構成へと再編されている。裏返せば江戸時代から明治五年までは八朔田実は祝祭日として公式に認められており、民間でも定着していた。しかも「八朔」呼称が使用されており、結局のところ、江戸時代に民間では八朔は祝日として認知され、室町時代に武家・公家発端の「八朔」呼称が民間に「沈下」(ただし、この言葉自体が適当かどうか再検討を要するが。)していったのであろう。