アメリカ移民の父といわれる現在の愛媛県八幡浜市出身の西井久八は安政3年に矢野崎村向灘に生まれた。明治10年には西南戦争の軍夫として働き、翌年には横浜で外国船のボーイとなって出国する。香港を経てヨーロッパに滞在し、そして渡米した。明治12~15年(西暦では1879~82年)にはワシントン州のベインブリッジ島ポート・ブレークリーの製材所で働いくこととなる。この頃のアメリカ移民は単身の男性が多く、定住指向は必ずしも強くなかった。久八も永住を決意しての渡米ではなかったと思われる。
西井久八が働いたベインブリッジ島はシアトルの対岸に位置する。この島は非常に林業が盛んで、日本移民者だけではなく、世界各国から労働者が集まっていた。林業の地で海に近いこともあり、当時世界一の生産量を誇った製材所もあった。ここで久八は24~27歳という時期を過ごすのである。そして28歳のとき(1883年)にシアトルにてレストランを開業する。これは日本人では初といわれる。このように職を転々としながら徐々に事業を定着させ、後に多くの八幡浜出身者が渡米しやすい環境を作ったといえる。実際、久八は1887年に一時帰国し、八幡浜周辺の若者に渡米を勧めたのである。1889年にはタコマの近くに農場を開いたが、結局その頃、ベイリングハムにレストラン2軒、タコマにレストラン3軒、クリーニング店1軒、ホテル1軒、シアトルにレストラン3軒などを経営するまでになり、渡米してきた若者もそこで働くことも多かったようである。
これは日本でいえば明治22年、23年頃の話である。その頃には西井久八のような成功体験が日本にも伝わり、明治20年代にはアメリカ渡航の案内書も出版・刊行されるまでになった。その渡航案内書などの資料が八幡浜市民ギャラリーにて数点展示されている。これらは渡米・移民を考えている若者には貴重な情報源であった。ただ、当初は日本人を歓迎し、渡航をうながす内容が多かったが、次第にアメリカ側の渡航制限が厳しくなるにつれ、内容は如何にスムーズに渡航、入国し、生活をはじめるのかという実情に即したものになっていった。いわば明治時代の移民史第一期(明治20年代まで)から、第二期へと移行する過程がこの渡航案内書などの史料から見て取れるのである。
そして、その後に山下宅治の渡航(1893年)や、1900年代になって「密航」という時代がやってくる。
ちなみに二宮忠八が丸亀練兵場で烏型模型飛行器の飛行実験に成功するのが、ほぼ同時期の1891年(明治24年)のこと。その時代、八幡浜出身の様々な人物が世界と対峙し、進取の気性を持ちながら生きていたのである。
※本文は、『アメリカに渡った日本人と戦争の時代』(国立歴史民俗博物館編)および八幡浜市民ギャラリーでの企画展「風をとらえた人々」パネル・キャプションを参考文献としている。
西井久八が働いたベインブリッジ島はシアトルの対岸に位置する。この島は非常に林業が盛んで、日本移民者だけではなく、世界各国から労働者が集まっていた。林業の地で海に近いこともあり、当時世界一の生産量を誇った製材所もあった。ここで久八は24~27歳という時期を過ごすのである。そして28歳のとき(1883年)にシアトルにてレストランを開業する。これは日本人では初といわれる。このように職を転々としながら徐々に事業を定着させ、後に多くの八幡浜出身者が渡米しやすい環境を作ったといえる。実際、久八は1887年に一時帰国し、八幡浜周辺の若者に渡米を勧めたのである。1889年にはタコマの近くに農場を開いたが、結局その頃、ベイリングハムにレストラン2軒、タコマにレストラン3軒、クリーニング店1軒、ホテル1軒、シアトルにレストラン3軒などを経営するまでになり、渡米してきた若者もそこで働くことも多かったようである。
これは日本でいえば明治22年、23年頃の話である。その頃には西井久八のような成功体験が日本にも伝わり、明治20年代にはアメリカ渡航の案内書も出版・刊行されるまでになった。その渡航案内書などの資料が八幡浜市民ギャラリーにて数点展示されている。これらは渡米・移民を考えている若者には貴重な情報源であった。ただ、当初は日本人を歓迎し、渡航をうながす内容が多かったが、次第にアメリカ側の渡航制限が厳しくなるにつれ、内容は如何にスムーズに渡航、入国し、生活をはじめるのかという実情に即したものになっていった。いわば明治時代の移民史第一期(明治20年代まで)から、第二期へと移行する過程がこの渡航案内書などの史料から見て取れるのである。
そして、その後に山下宅治の渡航(1893年)や、1900年代になって「密航」という時代がやってくる。
ちなみに二宮忠八が丸亀練兵場で烏型模型飛行器の飛行実験に成功するのが、ほぼ同時期の1891年(明治24年)のこと。その時代、八幡浜出身の様々な人物が世界と対峙し、進取の気性を持ちながら生きていたのである。
※本文は、『アメリカに渡った日本人と戦争の時代』(国立歴史民俗博物館編)および八幡浜市民ギャラリーでの企画展「風をとらえた人々」パネル・キャプションを参考文献としている。