弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑤
五 若き空海が生きた時代
少し話題を変えます。空海の生涯、特に幼少期についてちょっと考えてみたいと思います。空海が生まれたのは、先ほども言ったように七七四年です。そして空海が十一歳の時、延暦三(七八四)年に桓武天皇が都を平城京から長岡京に遷都します。いわゆる首都移転です。ところが、七八四年に平城京から長岡京への遷都を決めて工事が始まったけれども、なかなかうまくいかないということで、その十年後、延暦一三(七九四)年、空海二一歳のときに、長岡京から平安京へまた遷都します。首都移転ですから大変な事業です。都を造るというのはどれだけの作業になるか。当時の人たちの様子がわかる史料を紹介します。延暦一〇(七九一)年ですから、ちょうど空海が十八歳の時です。ちょうど大学に入った頃です。平城京にて大学で学び始めた頃に六国史の一つ『続日本紀』にこう書かれています。「越前や丹波や但馬や云々、阿波や伊予などの国に命じて平城宮、奈良の宮の諸門」いろんな門があります。それらの門を長岡宮に移させると。つまり伊予国、阿波国の人たちに命じて移させるのです。当時の首都移転、遷都というのは、現代のように例えば工事を発注して、そこで工事に携わった人たちに賃金、給料が支払われるという形ではないのです。労役とか造作と言いますけれども、当時の税というのは租庸調があって、庸がいわば労役という一種の税でした。そのうちのその遷都にかかわることも朝廷が阿波国や伊予国に命じて、そして門を奈良から京都の長岡京まで運ばせるのです。そういうことが行われていたのを間近で見ながら、大学でちょうど勉強をし始めていたのが空海なのです。だから、空海が二四歳までの約六年間、仏道修行に目覚めていくプロセスの中で、一つ経験としては、自分がちょうど大学で勉強して官僚エリートコースを歩んで朝廷の役人を目指している横で、自らの出身地である四国の人間が、苦役しながら門を解体して、そして給料をもらうわけでもないという状況であった。奈良時代は労役に関して往路は交通費が出ていましたが、復路(帰り)は交通費出ないのです。そのため野垂れ死んだりする人もいたという時代です。その状況を空海は見ていたということで、空海の幼少・青年期というのはいわば「労役の時代」であったといえるのです。
もう一つは、空海の幼少期は東北地方の蝦夷との戦争の時代でした。いわゆる三八年戦争という言い方があります。これは宝亀五(七七四)年に始まって、それから弘仁年間まで三八年間、いわゆる坂上田村麻呂とか、あと蝦夷方の阿弖流為(アテルイ)などの人物の名前出てきますが、ちょうどその時代です。この宝亀五年というのは七七四年、空海が生まれた年です。つまり、空海が生まれて三八歳になるまでは、東北地方の蝦夷と朝廷側が戦争をしていた時代になるわけです。例えばこの史料。延暦七(七八八)年、空海が十五歳の頃のものです。
史料5『続日本紀』延暦七(七八八)年三月辛亥条
下勅、調発東海、東山、坂東諸国歩騎五万二千八百余人、限来年三月、会於陸奥国多賀城。
十五歳というとちょうど空海が奈良の都に上っておじの阿刀大足から学問を学び始めた頃です。そのときに何が起こっていたかというと、これも六国史『続日本紀』の記載ですが、東海道や東山道(今の岐阜、長野など)、坂東の諸国に対して、五万二八〇余人を来年三月までに陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)まで送りなさいとあります。東日本といいますか要するに東海道、東山道、そして坂東諸国。その出征兵士の人数が一回で五万二〇〇〇人なのです。三八年戦争と言われますけども、延べ人数でいうと大体推計で二〇万人から二五万人が東北地方に派兵、派遣されたと言われます。この五万二〇〇〇人出征の記事の後に、坂東諸国から願い状が出ています。兵士を出し過ぎて国が疲弊して困るので、何とかしてほしいと朝廷に申し入れた記事が『続日本紀』に出てきます。これは坂東だけではなくて日本全国的な問題だったのです。当時の日本全国といいますか、日本列島の人口が約三〇〇万人と言われます。三〇〇万人のうち二五万人が派兵されたということです。全人口の約一〇分の一にあたります。そういった時代を空海は幼少期から過ごしていたわけですね。
もう一つは、東北地方のいわゆる俘囚(捕虜)の問題があります。東北地方の捕虜が朝廷によって西日本各地に移されるのですが、その移配先として四国は多くの史料に出てきます。例えばこれは空海誕生以前の七二五年の記事ですが『続日本紀』神亀二年閏正月己丑条に、俘囚、要するに東北地方で捕虜になった人物一四四人を伊予国、五七八人を筑紫に配すとあります。空海の時代の史料でいいますと『日本後紀』延暦一八(七九九)年十二月乙酉条に、東北地方の陸奥国が言うには、俘囚、要するに捕虜の吉弥侯部(キミコベ)黒田と妻の田刈女などが「野心いまだ改まらず」とある。要するに朝廷に対しての反逆心、大和に服従する心がまだ改まらなくて「賊地」、東北地方を往還している、行き来しているとあります。これも大和側、朝廷側の論理ですね。そこで彼の身を禁じる、要するに禁錮、捕まえて、土佐国(高知県)に配したとあります。こういう記事がよく出てきます。伊予国にもちょうど吉弥侯部氏が移配されたようで、ちょうど『日本後紀』弘仁四(八一三)年二月甲辰条の中に吉弥侯部氏に姓を与えるという記述が出ていますので、この伊予国にも陸奥国から移配されていたのは確実です。讃岐国にも蝦夷は移配されています。要するに、空海の幼少期、青年期といいますと蝦夷との戦争は、兵士が大量に派兵されるだけではなくて、捕虜として捕まえられた人物が四国にも移配されている。当然、讃岐国にもそういうことがあった。つまり若き空海の時代は「戦争の時代」でもあったのです。
さて、空海が生まれたのはいつかということで、先ほどから言っている七七四年ですけども、空海の誕生日はいつなのかというと六月十五日とされています。六月十五日の根拠は平安時代の史料には出てこないのですが、鎌倉時代、弘安元(一二七八)年成立の『真俗雑記問答鈔』の中に「弘法大師誕生日事、問何、答或伝云、六月十五日云々」と出てきます。それ以前には史料としては確認できません。鎌倉時代中期以降に定着したのが六月十五日の誕生日です。では、空海が生まれたとされる七七四年六月十五日頃はどんな様子だったのか。『続日本紀』宝亀五(七七四)年六月乙酉条を見ると、何と七七四年六月十八日、空海誕生の三日後の記事ですが、「伊予国飢賑之」とあります。伊予国が飢饉で困っていて、伊予国に対して賑給(シンキュウ、救援物資、食料を送ること)しています。要するに飢饉で困っていたということが国の歴史書に記載されている。本当に困らないと国史には出てきません。これは、伊予国だけではなくて記事を見ると志摩国(三重県)、飛騨国(岐阜県)も飢饉で、賑給されている。その直後の記事を見ると、土佐国でも同じような状況になっています。まだ讃岐では満濃池が修築されていない頃なので、恐らく讃岐国も飢饉で大変な状況だったと思います。要するに空海が誕生した、真魚が生まれたその瞬間というのは「飢饉の時代」であったということです。
以上のように、空海の幼少期、青年期は、人々は苦しんでいた時代であった。要するに、①造作、労役の時代、②戦争の時代、そして③飢饉の時代で、それにプラスして地震が頻発していた時期でもありました。『類聚国史』という、先ほど言った朝廷が編纂した歴史書(六国史)をもとに、分野ごとにまとめた史料ですが、そこに古代に発生した地震の一覧表が列挙されています。延暦一三(七九四)年頃、空海二一歳の頃に地震が頻発しています。史料自体、朝廷が編さんしたものなので、畿内中心、西日本中心の地震記録と言えますが、地震が頻発をしていた時期が空海二一歳の時です。ちょうど空海が大学をドロップアウトして四国で修行したり仏道修行に励んだりしていた頃になりますが、要するに労役、戦争、飢饉、そして地震という、その四つの時代背景があった。それが若き日の空海の時代というわけなのです。空海が修行しながら衆生済度を願うきっかけとなる時代背景が顕著であったということです。
⑥につづく
五 若き空海が生きた時代
少し話題を変えます。空海の生涯、特に幼少期についてちょっと考えてみたいと思います。空海が生まれたのは、先ほども言ったように七七四年です。そして空海が十一歳の時、延暦三(七八四)年に桓武天皇が都を平城京から長岡京に遷都します。いわゆる首都移転です。ところが、七八四年に平城京から長岡京への遷都を決めて工事が始まったけれども、なかなかうまくいかないということで、その十年後、延暦一三(七九四)年、空海二一歳のときに、長岡京から平安京へまた遷都します。首都移転ですから大変な事業です。都を造るというのはどれだけの作業になるか。当時の人たちの様子がわかる史料を紹介します。延暦一〇(七九一)年ですから、ちょうど空海が十八歳の時です。ちょうど大学に入った頃です。平城京にて大学で学び始めた頃に六国史の一つ『続日本紀』にこう書かれています。「越前や丹波や但馬や云々、阿波や伊予などの国に命じて平城宮、奈良の宮の諸門」いろんな門があります。それらの門を長岡宮に移させると。つまり伊予国、阿波国の人たちに命じて移させるのです。当時の首都移転、遷都というのは、現代のように例えば工事を発注して、そこで工事に携わった人たちに賃金、給料が支払われるという形ではないのです。労役とか造作と言いますけれども、当時の税というのは租庸調があって、庸がいわば労役という一種の税でした。そのうちのその遷都にかかわることも朝廷が阿波国や伊予国に命じて、そして門を奈良から京都の長岡京まで運ばせるのです。そういうことが行われていたのを間近で見ながら、大学でちょうど勉強をし始めていたのが空海なのです。だから、空海が二四歳までの約六年間、仏道修行に目覚めていくプロセスの中で、一つ経験としては、自分がちょうど大学で勉強して官僚エリートコースを歩んで朝廷の役人を目指している横で、自らの出身地である四国の人間が、苦役しながら門を解体して、そして給料をもらうわけでもないという状況であった。奈良時代は労役に関して往路は交通費が出ていましたが、復路(帰り)は交通費出ないのです。そのため野垂れ死んだりする人もいたという時代です。その状況を空海は見ていたということで、空海の幼少・青年期というのはいわば「労役の時代」であったといえるのです。
もう一つは、空海の幼少期は東北地方の蝦夷との戦争の時代でした。いわゆる三八年戦争という言い方があります。これは宝亀五(七七四)年に始まって、それから弘仁年間まで三八年間、いわゆる坂上田村麻呂とか、あと蝦夷方の阿弖流為(アテルイ)などの人物の名前出てきますが、ちょうどその時代です。この宝亀五年というのは七七四年、空海が生まれた年です。つまり、空海が生まれて三八歳になるまでは、東北地方の蝦夷と朝廷側が戦争をしていた時代になるわけです。例えばこの史料。延暦七(七八八)年、空海が十五歳の頃のものです。
史料5『続日本紀』延暦七(七八八)年三月辛亥条
下勅、調発東海、東山、坂東諸国歩騎五万二千八百余人、限来年三月、会於陸奥国多賀城。
十五歳というとちょうど空海が奈良の都に上っておじの阿刀大足から学問を学び始めた頃です。そのときに何が起こっていたかというと、これも六国史『続日本紀』の記載ですが、東海道や東山道(今の岐阜、長野など)、坂東の諸国に対して、五万二八〇余人を来年三月までに陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)まで送りなさいとあります。東日本といいますか要するに東海道、東山道、そして坂東諸国。その出征兵士の人数が一回で五万二〇〇〇人なのです。三八年戦争と言われますけども、延べ人数でいうと大体推計で二〇万人から二五万人が東北地方に派兵、派遣されたと言われます。この五万二〇〇〇人出征の記事の後に、坂東諸国から願い状が出ています。兵士を出し過ぎて国が疲弊して困るので、何とかしてほしいと朝廷に申し入れた記事が『続日本紀』に出てきます。これは坂東だけではなくて日本全国的な問題だったのです。当時の日本全国といいますか、日本列島の人口が約三〇〇万人と言われます。三〇〇万人のうち二五万人が派兵されたということです。全人口の約一〇分の一にあたります。そういった時代を空海は幼少期から過ごしていたわけですね。
もう一つは、東北地方のいわゆる俘囚(捕虜)の問題があります。東北地方の捕虜が朝廷によって西日本各地に移されるのですが、その移配先として四国は多くの史料に出てきます。例えばこれは空海誕生以前の七二五年の記事ですが『続日本紀』神亀二年閏正月己丑条に、俘囚、要するに東北地方で捕虜になった人物一四四人を伊予国、五七八人を筑紫に配すとあります。空海の時代の史料でいいますと『日本後紀』延暦一八(七九九)年十二月乙酉条に、東北地方の陸奥国が言うには、俘囚、要するに捕虜の吉弥侯部(キミコベ)黒田と妻の田刈女などが「野心いまだ改まらず」とある。要するに朝廷に対しての反逆心、大和に服従する心がまだ改まらなくて「賊地」、東北地方を往還している、行き来しているとあります。これも大和側、朝廷側の論理ですね。そこで彼の身を禁じる、要するに禁錮、捕まえて、土佐国(高知県)に配したとあります。こういう記事がよく出てきます。伊予国にもちょうど吉弥侯部氏が移配されたようで、ちょうど『日本後紀』弘仁四(八一三)年二月甲辰条の中に吉弥侯部氏に姓を与えるという記述が出ていますので、この伊予国にも陸奥国から移配されていたのは確実です。讃岐国にも蝦夷は移配されています。要するに、空海の幼少期、青年期といいますと蝦夷との戦争は、兵士が大量に派兵されるだけではなくて、捕虜として捕まえられた人物が四国にも移配されている。当然、讃岐国にもそういうことがあった。つまり若き空海の時代は「戦争の時代」でもあったのです。
さて、空海が生まれたのはいつかということで、先ほどから言っている七七四年ですけども、空海の誕生日はいつなのかというと六月十五日とされています。六月十五日の根拠は平安時代の史料には出てこないのですが、鎌倉時代、弘安元(一二七八)年成立の『真俗雑記問答鈔』の中に「弘法大師誕生日事、問何、答或伝云、六月十五日云々」と出てきます。それ以前には史料としては確認できません。鎌倉時代中期以降に定着したのが六月十五日の誕生日です。では、空海が生まれたとされる七七四年六月十五日頃はどんな様子だったのか。『続日本紀』宝亀五(七七四)年六月乙酉条を見ると、何と七七四年六月十八日、空海誕生の三日後の記事ですが、「伊予国飢賑之」とあります。伊予国が飢饉で困っていて、伊予国に対して賑給(シンキュウ、救援物資、食料を送ること)しています。要するに飢饉で困っていたということが国の歴史書に記載されている。本当に困らないと国史には出てきません。これは、伊予国だけではなくて記事を見ると志摩国(三重県)、飛騨国(岐阜県)も飢饉で、賑給されている。その直後の記事を見ると、土佐国でも同じような状況になっています。まだ讃岐では満濃池が修築されていない頃なので、恐らく讃岐国も飢饉で大変な状況だったと思います。要するに空海が誕生した、真魚が生まれたその瞬間というのは「飢饉の時代」であったということです。
以上のように、空海の幼少期、青年期は、人々は苦しんでいた時代であった。要するに、①造作、労役の時代、②戦争の時代、そして③飢饉の時代で、それにプラスして地震が頻発していた時期でもありました。『類聚国史』という、先ほど言った朝廷が編纂した歴史書(六国史)をもとに、分野ごとにまとめた史料ですが、そこに古代に発生した地震の一覧表が列挙されています。延暦一三(七九四)年頃、空海二一歳の頃に地震が頻発しています。史料自体、朝廷が編さんしたものなので、畿内中心、西日本中心の地震記録と言えますが、地震が頻発をしていた時期が空海二一歳の時です。ちょうど空海が大学をドロップアウトして四国で修行したり仏道修行に励んだりしていた頃になりますが、要するに労役、戦争、飢饉、そして地震という、その四つの時代背景があった。それが若き日の空海の時代というわけなのです。空海が修行しながら衆生済度を願うきっかけとなる時代背景が顕著であったということです。
⑥につづく