つい先日、東宇和郡宇和町岩木にある臨済宗安養寺を訪れた。この寺には臨済宗では珍しく、境内に弘法大師を祀った大師堂がある。ご住職の好意により中を拝見させていただいたのだが、通常の札所と同じく、堂内にお遍路さんの納め札が多数貼られていた事に驚かされた。この寺は四国霊場四十三番札所明石寺のある宇和町内にあるにもかかわらず、遍路道とは遠くかけ離れた所に位置している。現在、この寺は遍路と無縁であるが、実はこの場所はかつて宇和町と八幡浜市とを結ぶ街道であった笠置峠の麓にあり、戦前には、九州方面から来ているお遍路さんが、明石寺で札打ちを終えた後に立ち寄る場所だったというのである。
現在一般化されている札所と札所を結ぶ遍路道以外にも、かつてお遍路さんが通る道があることに気付かされたのだが、私はこれを「忘れられた遍路道」と名付けてみたい。 「忘れられた遍路道」は八幡浜市にもある。八幡浜から大洲に抜ける夜昼峠の麓に位置する川之内に安政四(一八五七)年建立の遍路道標が残っていることに象徴されるが、九州からのお遍路さんは、八幡浜に上陸し、大洲を通って札打ちを始めていたのである。 石井豫が明治八年に記した八幡浜の住民を列挙した記録によると、当時の港近くの船場通りに「三国屋へんろ宿」、「豊後屋へんろ宿」の二軒の遍路宿が存在していた。また、高群逸枝著『お遍路』(中公文庫)によると、八幡浜では九州から上陸した人のために、遍路衣装や用具一式が揃えて売られていたという。
「忘れられた遍路道」は上陸地と通常の遍路道を結ぶものだけではない。東宇和郡野村町惣川には「へんどくえお堂」という堂庵がある。「へんどくえ」とは遍路供養のことであろうが、ここには、石造の地蔵菩薩立像が安置されている。この地蔵の台座に「菅生(久万町の四十四番札所大宝寺)迄八リ、右へんろ道」と刻まれている。地元で聞いたところでは、南予地方の山間部の人が四国遍路に旅立つ場合、この惣川から喜多郡河辺村北平を経て、上浮穴郡小田町を通る通常の遍路道に合流したというのである。
これら南予地方山間部には、茶堂と呼ばれる弘法大師や地蔵を祀った茅葺き屋根の小堂が多く分布している。この茶堂では、かつて地区の人達により弘法大師の命日にあたる三月二十一日に、訪れるお遍路さんや旅人に対して茶、米やお金などの接待が行われていたいう話を各所で聞くことができる。札所の存在しない地域にも、遍路道は存在し、お接待という遍路文化も息づいていたのである。
戦前には歩き遍路が主流であったが、戦後、道路が整備され、自動車等の交通手段が一般化する中で、整備されていなかった峠越えのような歩き遍路道は次第に忘れられていった。ここで紹介したもの以外にも多数の「忘れられた遍路道」が四国各所にあるに違いない。最近、四国遍路道文化を世界遺産に登録しようという運動が盛んになっている。これを機会に、現在一般化している遍路道のみならず、かつて遍路が行き来した「忘れられた遍路道」を調査・把握することができれば、遍路道文化を、札所同士を結ぶ道の「線」文化ではなく、四国全体という「面」文化としてとらえることが可能となるのではないだろうか。
*本文は『えひめ雑誌』2001年4月10日号所収の原稿を転載したものである。
2001年05月17日