宇和島市の高校生藤田さんから自著『段々畑水荷浦-耕して天に至る-』という小冊子を送っていただいた。藤田さんは地歴部の部員で、私が同じく高校時代に地歴部に所属していた際、顧問として歴史・民俗に関してご指導いただいた赤松環先生に教わっている生徒さんである。彼女は歴史とくに江戸時代の庶民生活に興味を持ち、これまでも何冊もの冊子を刊行している今時珍しい高校生。これまでは杉浦日向子的なジャンルに傾倒していたようだが、最近、段々畑などの地元の伝承文化にも目を向けるようになってきたようだ。今回、送られてきた冊子を一通り読んでみたが、私にとって非常に興味深い事例が報告されていたので、ここで紹介してみたい。それは「仏像盗み」についてである。
この冊子の本編は宇和島市遊子水荷浦における段々畑の歴史や、段畑におけるイモの農耕暦が紹介されているが、付編で水荷浦の西福寺薬師堂の本尊薬師如来にまつわる伝承が掲載されている。
この薬師如来は、行基菩薩の作と言われ、かつては満野氏の守本尊であったという。満野氏は戦乱を避けて水荷浦中浦に居住したが、嗣子がなく、薬師如来は西海寺に安置された。ある時、九州から賊船が来て、この薬師如来を盗み取り、船を漕ぎだして数十里逃げ去ったと思ったが、夜が明けてみると不思議なことに水荷浦の沖に漂っていた。そこで賊は如来の威徳を感じて海岸の上に捨て、逃げ去ったという。また、藤田さんの祖母によると薬師如来は九州豊後の佐伯から流れ着いたという話が残っているともいう。
このような、仏像盗みは、宇和海沿岸で各地に聞くことのできる伝承である。私が直接聞いた範囲でも、西宇和郡三瓶町鴫山、東宇和郡明浜町高山に同様の伝承がある。鴫山の事例については明治時代後期に記された『双岩村誌』に詳しく、次のような記述がある。「何でもむかし鴫山の庵の御本尊様は一寸八分の阿弥陀如来で、そうして金むくの仏像におはしたが、或る年のことに豊後ノ国からわざわざ之れを盗みに来て、そうして穴井(現八幡浜市)から将にその船を出そうとしたのである。ところが御本尊様は豊後の者に盗まれて行かるるのを欲せられない。此の為めに七日七夜の間盗人の虫をせかせて、鴫山から取り返しに来るのを待って居られたそうであるが、然るにその当時の鴫山人は余程不信心であつたと見えて誰れも取り返しに行かなかった、それでとうとう仕方なく阿弥陀如来は豊後ノ国に渡られ五百羅漢で名高い或る寺院の七扉奥くに安置されておはしますとうふことである。」
明浜町高山でも、対岸の村の者がやってきて、石鎚信仰のご神体を盗んでいったという伝承がある。
以上の三事例に共通するのは、対岸の者が盗みにやってきたということである。しかも船を用いて盗んでいることからも、漁民による盗みと見ることができる。漁民による盗み慣行については、ご神体盗みといって、村で不漁が続いたときに他村のエビス神などを、豊漁になるからといってこっそり盗んでくるという習俗がある。宇和海沿岸でも、エビス神は盗まれるといけないからといって、コンクリート製の祠で頑丈に鍵をかけたりしているところもあり、この慣行が存在したことが確認できる。
さて、先に挙げた仏像盗みがどのような意味を持つものか、私は判断をしかねている面がある。ご神体盗みの慣行の延長線上にあるものか、それとも別の論理構造を持つものなのか、いまだよくわからない。
鴫山、高山の事例は詳しく聞いていたが、藤田さんが紹介した水荷浦の例は、仏像盗みの事例を蓄積する上で大いに役に立ちそうである。
盗人が九州(豊後)からやってくるのも興味深く、ご神体盗みは、同一の漁業圏域内で行われることが多いので、仏像盗みがこの延長線上にあるとすると、これまであまり注目されてこなかった豊後水道を挟んでの、愛媛県南予地方と大分県の文化交流の一事例として取り上げることができるのではないかという期待を私は持っている。
また、一高校生が、地元の伝承の発掘に取り組み、それを冊子にまとめることにも驚きを感じたが、その報告が新鮮でもあり、今後の研究課題を提示してくれていることもあって、若い世代であっても地元の伝承に興味を持ち、それが自らの郷土にアイデンティティを構築する手段として有用であり、それを実践している人が実際にいることを同時に「発見」した次第である。
2001年05月17日
この冊子の本編は宇和島市遊子水荷浦における段々畑の歴史や、段畑におけるイモの農耕暦が紹介されているが、付編で水荷浦の西福寺薬師堂の本尊薬師如来にまつわる伝承が掲載されている。
この薬師如来は、行基菩薩の作と言われ、かつては満野氏の守本尊であったという。満野氏は戦乱を避けて水荷浦中浦に居住したが、嗣子がなく、薬師如来は西海寺に安置された。ある時、九州から賊船が来て、この薬師如来を盗み取り、船を漕ぎだして数十里逃げ去ったと思ったが、夜が明けてみると不思議なことに水荷浦の沖に漂っていた。そこで賊は如来の威徳を感じて海岸の上に捨て、逃げ去ったという。また、藤田さんの祖母によると薬師如来は九州豊後の佐伯から流れ着いたという話が残っているともいう。
このような、仏像盗みは、宇和海沿岸で各地に聞くことのできる伝承である。私が直接聞いた範囲でも、西宇和郡三瓶町鴫山、東宇和郡明浜町高山に同様の伝承がある。鴫山の事例については明治時代後期に記された『双岩村誌』に詳しく、次のような記述がある。「何でもむかし鴫山の庵の御本尊様は一寸八分の阿弥陀如来で、そうして金むくの仏像におはしたが、或る年のことに豊後ノ国からわざわざ之れを盗みに来て、そうして穴井(現八幡浜市)から将にその船を出そうとしたのである。ところが御本尊様は豊後の者に盗まれて行かるるのを欲せられない。此の為めに七日七夜の間盗人の虫をせかせて、鴫山から取り返しに来るのを待って居られたそうであるが、然るにその当時の鴫山人は余程不信心であつたと見えて誰れも取り返しに行かなかった、それでとうとう仕方なく阿弥陀如来は豊後ノ国に渡られ五百羅漢で名高い或る寺院の七扉奥くに安置されておはしますとうふことである。」
明浜町高山でも、対岸の村の者がやってきて、石鎚信仰のご神体を盗んでいったという伝承がある。
以上の三事例に共通するのは、対岸の者が盗みにやってきたということである。しかも船を用いて盗んでいることからも、漁民による盗みと見ることができる。漁民による盗み慣行については、ご神体盗みといって、村で不漁が続いたときに他村のエビス神などを、豊漁になるからといってこっそり盗んでくるという習俗がある。宇和海沿岸でも、エビス神は盗まれるといけないからといって、コンクリート製の祠で頑丈に鍵をかけたりしているところもあり、この慣行が存在したことが確認できる。
さて、先に挙げた仏像盗みがどのような意味を持つものか、私は判断をしかねている面がある。ご神体盗みの慣行の延長線上にあるものか、それとも別の論理構造を持つものなのか、いまだよくわからない。
鴫山、高山の事例は詳しく聞いていたが、藤田さんが紹介した水荷浦の例は、仏像盗みの事例を蓄積する上で大いに役に立ちそうである。
盗人が九州(豊後)からやってくるのも興味深く、ご神体盗みは、同一の漁業圏域内で行われることが多いので、仏像盗みがこの延長線上にあるとすると、これまであまり注目されてこなかった豊後水道を挟んでの、愛媛県南予地方と大分県の文化交流の一事例として取り上げることができるのではないかという期待を私は持っている。
また、一高校生が、地元の伝承の発掘に取り組み、それを冊子にまとめることにも驚きを感じたが、その報告が新鮮でもあり、今後の研究課題を提示してくれていることもあって、若い世代であっても地元の伝承に興味を持ち、それが自らの郷土にアイデンティティを構築する手段として有用であり、それを実践している人が実際にいることを同時に「発見」した次第である。
2001年05月17日