愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑧

2023年12月25日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑧

八 空海入定
 さあ、最後になりますが、空海が亡くなるのが承和二(八三五)年です。七七四年に生まれた空海が六二歳、八三五年三月二一日に亡くなります。三月二一日に亡くなったということは『続日本後紀』という、先ほどからも言っている朝廷の歴史書の中にきちっと出てきます。金剛峯寺といいますか、高野山で亡くなったと記されている。高野山で亡くなって、京都にその情報が伝わるまでに数日かかったとあります。四日かかっているのです。そして天皇とか上皇の弔辞が述べられる、書かれることになりますけども、その弔辞が『続日本後紀』の中に詳しく記されていて、空海がどういう人物だったのか、その事績が紹介されています。

史料9『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月庚午条
法師者讃岐国多度郡人、俗姓佐伯直、年十五就舅従五位下阿刀宿祢大足、読習文書、十八遊学槐市、時有一沙門、呈示虚空蔵聞持法、其経説、若人依法、読此真言一百万遍、乃得一切教法文義諳記、於是信大聖之誠言、望飛焔於鑽燧、攀躋阿波国大瀧之嶽、勤念土左国室戸之崎、幽谷応聲、明星来影、自此恵解日新、下筆成文、世伝、三教論、是信宿間所撰也、在於書法、最得其妙、與張芝斎名、見称草聖、年卅一得度、延暦廿三年入唐留学、遇青龍寺恵果和尚、禀学真言、其宗旨義味莫不該通、遂懐法宝、帰来本朝、啓秘密之門、弘大日之化、天長元年任少僧都、七年轉大僧都、自有終焉之志、隠居紀伊国金剛峯寺。

 このような僧伝といいますか、人物伝が朝廷の正式な歴史書の中に記されるということはなかなかありません。記載されているということは、それだけ空海が八三五年までの間に朝廷に対してかなり貢献をしていたり、影響を与えたりしていたということとなります。空海は八三五年三月二一日、その約一週間前の一五日に、自分は三月二一日寅の刻(午前四時頃)に入定することを弟子たちに告げています。空海には主に一〇人の弟子がいて、よく「十大弟子」と称されます。実恵、真済、真雅などがいますけれど、その半分は讃岐国出身です。空海が亡くなった場所は高野山です。高野山で十大弟子に、このまま永遠の禅定に入ると。入定してそのまま岩窟(今の奥の院)に輿で運ばれるというシーンが絵巻物にも描かれています(写真8)。今でも三月二一日というとやはり弘法大師の命日、お遍路さん関連でも盛大な儀礼日ですし、ちょうどこの頃にお遍路さんの数も増えてきます。
 実は、空海には遺言書と言われるものがあります。『御遺告(ごゆいごう)』です。この『御遺告』に何が書いてあるかというと、真言宗の教団運営や遺訓の他に、自分が亡くなった後どこに行くか、きちっと書かれています。ただ『御遺告』自体は最近の研究では空海本人が記したものではなく、八三五年に空海が亡くなった後、約一〇〇年後に成立したものではないかと言われています。空海の遺言を聞いた弟子たちが遺言を約一〇〇年後(西暦九〇〇年代前半)にまとめたものが『御遺告』ということです。内容は二五箇条にわたっています。その第十七条に「吾れ閉眼の後」閉眼というのは眼を閉じると、要するに、眼を閉じって亡くなったら「必ず方に兜卒他天に往生して」兜卒天とは弥勒菩薩の浄土です。そこで弥勒慈尊(弥勒菩薩)の御前に侍すべしと。弥勒菩薩っていうのはまだ「菩薩」なのです。つまり修行の身です。その修行を成就させるという五六億七〇〇〇万年後にこの世に下生して人々を救うとあります。五六億七〇〇〇万年は長いですよね。それまでの間はどうするのか。これについても書かれています。「弥勒慈尊の御前に侍すべし」とあり「五六億余の後には必ず慈尊」弥勒とともに「御共に下生し」この世におりてきて、そして「吾が先跡を問ふべし」とある。「また且つは未だ下らずの間は」つまりまだ下生しない間(弥勒慈尊の兜卒天にいるとき)は、「微雲管」つまり雲の小さいすき間からこの世を見て「信否を察すべし」というのです。要するに人々がきちっと信仰しているか、していないかを見ると書いているのです。「是の時に、勤あらば祐を得ん」とあり、信心があれば助けますよと。しかし「不信の者は不幸ならん」と書いてある。そして最後に「努力努力後に疎かにすることなかれ」と書かれています。空海は没後、弥勒菩薩の浄土で雲の合間から我々の行動をずっと見ているというのが、この九〇〇年代前半に書かれた空海の「他界観」です。空海が今どこにいるのかという議論では様々な説があります。高野山奥の院で毎朝、今でも生身供といいますか、生きているとされて御飯を供えられていますが、高野山奥の院で永遠の禅定に入って生きているとも言われる。また弘法大師空海は四国霊場をお遍路さんとともに歩いているという様にもよく言われます。
 今、私は「弘法大師空海」と言いましたが、実は空海は亡くなった後に文徳天皇から「大僧正」の僧階をもらっています。空海の弟子の真済が僧正に就任する際の史料が『日本文徳天皇実録』に載っています。僧階といいますか僧侶にもいろんな位階があります。①律師、②僧都、その上に③僧正があるのですが、僧都にも「大僧都」と「少僧都」があります。空海は僧都の中の「大僧都」の時に亡くなりました。一番上の「僧正」になっていなかったのです。その「僧正」に就任しないまま亡くなっています。その約二〇年後、弟子真済が僧正への就任の機会が訪れた時、真済は文徳天皇に対して、我が師空海は「僧正」に就いていないから自分はそれを辞退しますと告げたのです。すると文徳天皇はその事に感動して、ならば真済は僧正に就きなさい。そして空海に「大僧正」を賜りますという事になったのです。これも六国史である『日本文徳天皇実録』天安元(八五七)年十月丙戌条に記されています。
 そして、我々がよく呼んでいる「弘法大師」という名前ですが、「大師」という号は基本的に天皇から賜るものです。空海が天皇から賜ったのは延喜二一(九二一)年のことです。その時の真言宗の実力者であった観賢が尽力します。彼も讃岐国出身ですが、観賢が当時の醍醐天皇に上申、申請をして、そして醍醐天皇から「弘法大師」の名前を賜ることになったのです。つまり九二一年よりも前には「弘法大師」という呼び方は存在しません。空海の没年が八三五年ですから、没後八六年目に大師号を賜ったのです。つまり幼年期は真魚、青年期から没するまでは空海、そして後に大僧正空海、そして九二一年から弘法大師と呼ばれるようになるわけです。なお、大師号は空海が「弘法大師」を賜る前、既に貞観八(八六六)年には最澄が伝教大師、円仁が慈覚大師の号をもらっています。二人とも天台宗の人物です。真言宗で空海が弘法大師の号をもらった数年後に、天台宗側としては、真言宗が大師号を賜ったのならこちらも大師号をもらうべき人物がいると主張します。延長五(九二七)年、空海が大師号を賜った六年後に、天台宗の円珍が智証大師の号を賜ります。この円珍も讃岐国出身で空海の親戚筋にあたり、天台宗の基礎を築いた人物です。このように、大師号獲得合戦のような状況が八〇〇年代後半から九〇〇年代前半に天台宗と真言宗の間で繰り広げられたのです。
 さて、延喜二一(九二一)年に真言宗として初めて大師号を賜りましたが、その際に醍醐天皇から衣装ももらっています。それを観賢が高野山奥の院に持参して、空海が禅定している岩窟を開けて見ると、空海の姿は髪がぼさぼさ、服はぼろぼろの状態で禅定しているのを見たと絵巻にも描かれています(写真9)。そして空海に対して天皇から下賜された衣を着せて、剃髪したのです。それからまた空海は奥の院で永遠の禅定に入って、今現在でも修行をしている、生きているという話が広く伝わっていくという形になっていきます。
 本日の講演では、弘法大師空海の生涯と言いながら、実際に真言密教の世界でどれだけ活躍して、神泉苑でどういう雨乞いをしたのかというような具体的な話は全くできませんでした。しかし出身地の四国と絡めて話はできたかと思いますが、「四国遍路」とかさらには「仏教」とか、それだけで空海の事績は語れない側面があることをご理解いただけたかと思います。要するに「遍路」から見た空海だけではなくて、平安時代、一二〇〇年前の空海の生きざまというものを、一つ一つ歴史資料を実証的に検証しながら見ていく必要がある。今の「真言密教」とか「遍路文化」というフィルターを通さないで平安時代の基礎史料をもとに空海を見つめるというのは重要な視点であり、基本的姿勢です。本年は一二〇〇年という記念の年でもありますので、まだ半年ありますが、本、雑誌とかテレビでも空海が取り上げられることが多いかと思います。そういった様々な機会に皆さんも空海の人物像について多角的に考えていただければと思います。
 ちょうど一二時になりました。約束の時間が来ましたのでこれで終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

おわり
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