愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑥

2023年11月11日 | 災害の歴史・伝承
5 嘉永から安政へ―連続した災害―
嘉永7(1854)年は記録すべき大事件が続発した年であった。同6年6月にアメリカ使節ペリーが浦賀に入港。蒸気船(黒船)が正月に再来して、江戸幕府に日米和親条約を結ばせることになり、日本は幕末の動乱期に入った。4月6日には京都で御所付近から出火し町中が大火となり約5400軒が焼失している。6月14から15日には伊賀上野地震が発生し、伊賀上野付近では約600名が犠牲となり、東海から近畿地方でも大きな被害が出た。そして11月4日、駿河湾から熊野灘の南海トラフ東部を震源とする大地震が発生し、その約32時間後に、紀伊半島から四国沖の南海トラフ西部を震源とする大地震が連続して起きた。この2つの地震は関東以西の沿岸部に大きな津波の被害をもたらした。
様々な事件、災害が発生したことから11月27日には年号が「嘉永」から「安政」に改元され、この大地震は安政東海地震、安政南海地震と呼ばれている。しかし、政治を安定させたい幕府の願いも叶わず、安政2年10月2日には東京湾北部を震源とする大地震(安政江戸地震)が発生し、倒壊家屋は約15,000軒、大火が起こったこともあって約10,000人が犠牲となっている。
ここで、安政南海地震での松山地方の被害記録を紹介しておきたい。松山久米の日尾八幡神社神官であった『三輪田米山日記』が愛媛大学図書館に所蔵されている。地震翌日の11月6日の日記には「十一月六日 朝一天無雲、日光明 昼夜地震、郡中など大破損、人死など夥(おびただし)、又今津など大地さけ、尾たれの有家すくなきなど、城下も人家破損多、道後の湯などとまるはなしなど種々有之、又城下にも人死なども有之話も有之」とあり、まず郡中(現伊予市)での建物被害が大きく、多くの死者が出たことが記されている。今出(現松山市西垣生町)では地面に大きな亀裂ができたとあるが、後の昭和南海地震でも重信川対岸の松前町岡田地区にて道路が約100mにわたって亀裂が走るなど松山市から伊予市にかけての海岸付近において、南海地震では揺れによる建物、土木被害が発生しやすいことが地域的特徴といえる。松山城下でも住宅被害が多く、死者も出たとの伝聞情報も記されている。『米山日記』11月7日条では「昼一度大地震、夜両度甚、其外昼夜小震数度」、11月8日条に「小震数度」とあり、余震が頻発していたことがわかる。道後温泉の湯が止まったことも記録されているが、安政南海地震では道後温泉は105日間、つまり約3ヶ月の間、湧出が停止している(『松山市史』第1巻、39頁)。歴代南海地震では高い確率で道後温泉の湧出が止まっており、それは後に昭和南海地震でも同様であったが、この安政南海地震直後に不出となったことが湯神社所蔵の水行人の額に記されている。この額は地震翌年の安政2(1855)年4月12日に奉納されたもので、「嘉永七年申寅霜月五月地震てふ、天の下四方の国に鳴神のひびきわたりて、温泉忽ち不出なりて音絶ぬ故(中略)若きすくよかなるかぎりには赤裸となり雪霜の寒きを厭はず雨風のはげしきをおかして三津の海へにみそぎしてまたは御手洗川の清きながれに身をきよめ、夜こと日毎に伊佐爾波の岡の湯月の大宮出雲岡なる此湯神社に参りて温泉をもとの如くに作り恵み給へと祈り奉りしに(中略)明る安政二年きさらぎ廿二日といふに、湯気たち初め日ならずしてもとのごとくに成ぬ」とあり、ここには涌出の復旧を祈願して大人数で水行が行われ、道後、三津浜間の街道2里余りを裸で腹に晒白木綿を巻き、「御手洗川の清き流れで」汐垢離に往復して、神に祈願した。地震後に止まった湯は、翌安政2年2月22日に湯気が立ち始め、復旧したことが書かれている。湯神社に奉納されたものは他にも安政2年奉納の「俳諧之百韻」の俳額があり、安政元年の地震で停止した温泉の湧出祈願の俳諧が記されている。このように安政南海地震でも約3ヶ月間、湯が止まり、人々が復旧を必死の思いで祈願していた様子がわかる。
また東予地方での安政南海地震の記録については『小松藩会所日記』があり、小松藩内外の被害の状況が詳細に記録されている。安政南海地震記述を抜粋すると次のようになる。「一、(中略)町方商人共西方ゟ帰、大洲、宇和島辺最強、松山も海辺強趣伝承之一、北条広江今在家村沖手堤(中略)所々長く竪ニ破レ、就中石垣沖手江大分下り居頗ル大傷之趣、幸小汐時合差当患無之趣、新屋敷乗越先往来大分破レ居、三之坪以前之泉所高く洲ヲ吹出シ同所近辺百姓家庭江水吹出シ未止趣有之、北条新田幸神社堤大損、等承之。十二月朔日 一、昨日抔沖手殊の外大潮、今在家たんほ東堤地震ニて少々下り居候処等殆ント馬乗江及候位甚危所、幸西風ニて無難相済、北条御船入上下辺田畑江潮越込」とあり、水が噴き出すという液状化現象が見られたことや、現西条市今在家で地盤の沈降現象が見られ、大潮によって海水の侵入があったことを推察できる記述となっている。
 さて、瀬戸内海側の今治市の大浜村柳原家文書「地震記録」(今治郷土史編さん委員会編『今治郷土史』第5巻・資料編 近世3、今治市役所、1988年)が刊行されている。これは時系列でいつ、どのような大きさの地震が発生したか細かく記録されている史料である。加えて、後の地震の記録も残されている。例えば、例えば嘉永7年(安政元年)からであれば、約3年後の安政4年の8月25日に余震が起こっている。プレート境界型ではなく比較的深いところで発生するプレート内地震で、2001 年芸予地震と同じタイプの地震である。「地震記録」によればこのとき、安政南海地震の揺れの規模を十だとすると、この度の揺れは十二、三分ということで、1.2、~1.3倍であったと記される。要するに、安政南海地震よりも数年後の安政4年の地震の方が揺れは大きかったことになる。
 柳原家記録からは、安政南海地震発生以降、何月何日の何時にどのような規模の地震が起こったかが記されており、時系列で余震活動の発生頻度が分かる(表「安政南海地震の余震回数(現今治市)」参照)。大大、大、中大、中、中小、小、地鳴とあるのは史料の記述である。宇佐美龍夫『歴史地震事始』(1986年)や、震度判定の記録と今までの芸予地震などでの鳥居・石灯籠や建物の倒壊・損壊の程度により大体震度5強、震度6弱といった震度の区別ができる。ここから今治においては南海地震の本震は震度5強であったと推定することができる。そして本震から約10日から2週間で、ある程度余震が落ち着いたことが分かる。東日本大震災と比較すると、この震度や余震の回数は少ない。東日本大震災がマグニチュード9.0で、安政南海地震は『理科年表』によるとマグニチュード8.4であるため、東日本大震災よりは規模は小さい。しかし後世に発生した昭和南海地震はマグニチュード8.0と言われているため、昭和南海地震よりも安政南海地震の方が被害規模は大きくなっている。このことは、余震活動から地震の規模を推定する手がかりにもなり、貴重な史料記述であるといえるだろう。
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