愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

庚申庵と庚申信仰

2004年03月18日 | 信仰・宗教

先日、NPO法人庚申庵倶楽部(松山市味酒町)の会員になった。1月下旬に松山での地域づくりフォーラムにて、庚申庵倶楽部理事長の松井先生や、事務局田所氏のお話を聞く機会があり、NPO法人として文化財の保護・活用に取り組む姿勢に共感できたので、即、入会を決めた。
その後、庚申庵に関する書籍である『庚申庵へのいざない』(アトラス出版、以下『いざなない』)を読んで、さらに「庚申庵」に興味を持った。私の調査テーマである「愛媛県内の信仰・儀礼伝承の民俗学的研究」に関連する「庚申信仰」と絡んできたからである。『いざない』に紹介されている栗田樗堂「庚申庵記」(文化2年成立)に見える庵名の由来記事を読むと、①寛政庚申年に立てられた。②かつて近くに青面金剛が安置されていた。③この付近を村の老人は「古庚申」と呼んでいる。以上のことが明確になるが、私は②、③に特に興味を惹かれる。
『いざない』によると、「古庚申」の注記に「松山市味酒町二丁目三番六号付近にあった」とあるが、①ここに庚申堂があったのか、それとも庚申塔があったのみなのか、②祀られていたのは庚申の木像なのか、それとも単に石造物なのか。③祀り手の主体は、味酒の住民(講組織)だったのか、それとも僧侶・山伏などの宗教者だったのか、いずれ現地に行って調べてみたい事項である。
「庚申庵記」の記述からすると、「古庚申」は地名であり、「古」がつくということは、1800年頃には既に庚申堂(もしくは像)が移転して「新庚申」が存在していたことになる。この1800年頃にあったと思われる「新庚申」と、現況の「路傍に小さな石像と、『庚申』と記した小さな石碑がある。現在の庚申堂は、この場所から60メートルほど南にある集会所の敷地内に、神式で祭られている」(注記)とが、どう繋がるのか知りたいところである。現在「神式」で祀られているということは、明治初期の神仏分離や廃仏毀釈、修験道廃止により、それまでの「庚申」の祀り手・祀り方に変化があったことは間違いなく、明治初期以降の「庚申」は、いわば「新々庚申」なのではないかと思うのである。
また、1800年頃の古老が「古庚申」と呼んでいる(若い人は呼んでいなかった?)ことから、「新庚申」への移転は、その1世代前(約30年)以前と推測すれば、18世紀半ば以前ということになる。
味酒の庚申信仰の形態を時代で区分すると次のようになるのではないかと、勝手に考えてみた。

第1期:18世紀半ば以前=「古庚申」=庚申信仰の「起」<祀り手の主体は、僧侶(もしくは山伏)であり、庶民の講組織は未成熟だった。>

第2期:~明治時代初期=<新庚申>=庚申信仰の「承」<祀り手の主体は、住民による講組織であり(庚申講の成立を契機に移転?)、それに僧侶(もしくは山伏)が関与していた。>

第3期:~昭和30年代(←勝手な推測です。)=庚申信仰の「転」<祀り手の主体は、住民による講組織であることは変わりないが、神仏分離や廃仏毀釈運動の影響により、祀り方は神式になった。>

第4期:~現在=庚申信仰の「結」<講組織も機能しなくなり(庚申講が開かれなくなる)、庚申像のみ安置される。(もしくは神官による祭りが細々と行なわれる。)>

以上の時代区分の推測が、もし証明できれば、庚申信仰の歴史を考える上で貴重な事例になると思う。(私の勝手な解釈なので、調査すればすぐに瓦解するかもしれませんが・・・。)時間ができれば、ゆっくり味酒のお年寄りに話を聞いたり、庚申像の現地見学ができればと考えている。

2004年03月18日


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