愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

いも地蔵-下見吉十郎の旅-

2004年03月23日 | 生産生業

「いも地蔵」は、江戸時代に甘藷(さつまいも)を瀬戸内海の島々に伝えた功労者である下見(あさみ)吉十郎(1673~1755年)を祀った、石造の地蔵菩薩像です。現在、越智郡上浦町瀬戸の向雲寺(こううんじ)境内にあり、台石の左面には「下見吉十郎」の文字が刻まれています。
 この吉十郎は、瀬戸村の生まれで、先祖は名族河野氏の出と言われています。吉十郎には妻と2男2女の4人の子供がいましたが、全員、早死にしてしまいました。嘆き悲しんだ吉十郎は、正徳元年(1711)、37歳の時に、六十六部廻国行者となって日本全国を回国行脚の旅に出ました。六十六部廻国行者とは、書き写した法華経を全国66ヶ所の寺院などの霊場に、一部ずつ納めて回る巡礼者のことです。
瀬戸村から旅立った吉十郎は、広島の尾道を経て、京都、大坂方面をまわり、九州に下りました。同年11月22日に、薩摩国(現鹿児島県)日置郡伊集院村を訪れ、そこで、土兵衛という百姓の家に宿泊させてもらいました。その際、薩摩地方で栽培されている甘藷をご馳走になりました。薩摩ではこの芋のことを琉球(沖縄)方面から伝わったとして「琉球芋」と呼ばれていました。土兵衛からは、甘藷は栽培方法が簡単で、主食にもなり、しかも悪い土壌でも育つので飢餓に耐えることのできるものであることを教えてもらいました。
吉十郎の故郷である瀬戸内海の島々は、平地が少なく、ひとたび水不足や洪水があると作物のあまり穫れなくなる所だったので、土兵衛に、ぜひこの甘藷の種芋を分けてほしいと願い出ました。食糧不足で悩む瀬戸内海の島々でこの甘藷を栽培することができれば、飢餓に苦しむこともなくなると考えたのです。
ところが、薩摩藩では甘藷を国外へ持ち出すことは、かたく禁止されていました。もし見つかってしまうと重い刑罰をうけなければならなかったのです。土兵衛には断られましたが、吉十郎は危険を覚悟で、ひそかに種芋を故郷に持ち帰える決心をし、種芋を携えて無事帰郷することができました。
翌年の春を待って種芋を植え、試しに苗を作ってみました。最初は、収穫があるかどうか、村人も半信半疑でしたが、やがて秋になると甘藷は豊作で、村人は大変喜びました。
こうして瀬戸村からはじまった甘藷栽培は、瀬戸内海の島々に広がっていき、農民はこれによって幾多の干害を切り抜けることができました。なかでも、享保17年(1732)に西日本でおこった大飢饉の際、松山藩では多くの餓死者が出たと伝えられていますが、この地方では、ほとんど餓死者を出すことはありませんでした。吉十郎の持ち帰った甘藷が人々を救ったのです。
後に、江戸幕府は、青木昆陽が江戸の小石川薬園で甘藷を栽培した後、幕府は飢饉の対策として、全国に甘藷の栽培を奨励しました。薩摩で「琉球芋」と呼ばれていた甘藷は、こうして全国に広まり「薩摩芋」と呼ばれるようになり、人々を飢饉から救いました。
吉十郎は80歳で亡くなりましたが、死後、瀬戸村の向雲寺に葬られました。この寺では、彼の業績を追慕して「いも地蔵」がつくられ、毎年命日の旧暦9月1日には供養祭「いも地蔵祭り」が営まれています。
(出典)『愛媛子どものための伝記』第4巻(愛媛県教育会、昭和58年)
(参考文献)木村三千人『さつまいも史話』(創風出版社、平成11年)
(追記)以上のいも地蔵・作兵衛・アメリカ移民の3話は、『伝えたいふるさとの100話』(地域活性化センター発行)の掲載候補として執筆・提出した文章である。このうち、いも地蔵・作兵衛が100話に選定された。文章はリライトされて掲載されているので、ここでは提出文を原文のまま掲載した。

2004年03月23日

最新の画像もっと見る