大分県においては、柱祭りは現在でも、大分市鴛野、寒田、中尾、杵築市出原、狭間町同尻の五ヶ所で行われている。いずれも八幡浜市の五反田柱祭りと同様に、盆に行われる火祭りである。
昔から現在に至るまで継続して行われている例は、出原と同尻だけであり、大分市内の三ヶ所は、諸事情で戦後間もなくから途絶えていたものを、一種の地域おこしの行事として、昭和六〇年から平成二年にかけて復活させている。寒田では、子供会が中心となって行っており、当然、柱の高さも、八幡浜市五反田の約二〇メートルと比べて短めで、七から八メートルと子供用の高さとなっている。
大分市内の柱祭りの特徴としては、マンドロ(万灯籠)の行事と一体となっていることが挙げられる。地区内の主要道路の端に四、五百本の小竹の上部にロウソクを立てて火を灯し、その火を以て、柱祭りで使用する火とするのである。マンドロは、言ってみれば、盆行事の終わりとして、各戸で麻木を焚いて精霊送りをするものを、地域全体の行事へと発展させたものと言えるが、このことを考えると、大分県の柱祭りは、まさに精霊送りのための行事であるといえる。
一方、八幡浜市五反田では、それぞれの家々で麻木を焚いて、精霊送りをするが、八幡浜港近くで行われるような精霊流し等の地域全体での行事は見られない。
このことからは、五反田柱祭りが、修験者金剛院の非業の死による祟りを慰めるという表向きの理由があるものの、実際には五反田地域全体としての精霊送りの性格も持っていると見ることができるのである。つまり、地域行事として盆の先祖送りのために火を用いる。これが、柱祭りの原型なのだろう。
さて、柱を立てることに、何の意味があるのだろうか。
これは、オハケの一種と考えれば納得がいく。現在でも、南宇和郡の秋祭りでは、神の依代として、神社境内や御旅所にオハケという柱を立てる。祭りを行うために、天上から降臨したり、祭りの最後に天に戻っていく神の通り道とするためである。同様に柱祭りの柱も、盆にこの世に戻っていた先祖が、それを通ってあの世に帰って行く為の装置といえるのではないだろうか。
1999年10月21日掲載
昔から現在に至るまで継続して行われている例は、出原と同尻だけであり、大分市内の三ヶ所は、諸事情で戦後間もなくから途絶えていたものを、一種の地域おこしの行事として、昭和六〇年から平成二年にかけて復活させている。寒田では、子供会が中心となって行っており、当然、柱の高さも、八幡浜市五反田の約二〇メートルと比べて短めで、七から八メートルと子供用の高さとなっている。
大分市内の柱祭りの特徴としては、マンドロ(万灯籠)の行事と一体となっていることが挙げられる。地区内の主要道路の端に四、五百本の小竹の上部にロウソクを立てて火を灯し、その火を以て、柱祭りで使用する火とするのである。マンドロは、言ってみれば、盆行事の終わりとして、各戸で麻木を焚いて精霊送りをするものを、地域全体の行事へと発展させたものと言えるが、このことを考えると、大分県の柱祭りは、まさに精霊送りのための行事であるといえる。
一方、八幡浜市五反田では、それぞれの家々で麻木を焚いて、精霊送りをするが、八幡浜港近くで行われるような精霊流し等の地域全体での行事は見られない。
このことからは、五反田柱祭りが、修験者金剛院の非業の死による祟りを慰めるという表向きの理由があるものの、実際には五反田地域全体としての精霊送りの性格も持っていると見ることができるのである。つまり、地域行事として盆の先祖送りのために火を用いる。これが、柱祭りの原型なのだろう。
さて、柱を立てることに、何の意味があるのだろうか。
これは、オハケの一種と考えれば納得がいく。現在でも、南宇和郡の秋祭りでは、神の依代として、神社境内や御旅所にオハケという柱を立てる。祭りを行うために、天上から降臨したり、祭りの最後に天に戻っていく神の通り道とするためである。同様に柱祭りの柱も、盆にこの世に戻っていた先祖が、それを通ってあの世に帰って行く為の装置といえるのではないだろうか。
1999年10月21日掲載