愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

牛をめぐる民俗と地域差

2007年10月29日 | 祭りと芸能
平成19年10月20日に鹿児島大学で行われた多島域フォーラムシンポジウム「闘牛ネットワークと周辺-周辺」での発表内容です。

(趣旨)
日本の闘牛に関しては様々な起源説が流布され、闘牛を行う南島・アジア各地との関連性を指摘する傾向も強い。また、闘牛習俗の分布と牛供犠の習俗の分布がおおよそ重なることもあり、「伝播」や「残存」という視点で闘牛を捉える研究も多い。しかし、闘牛の起源について最も有力なのは自然発生説であり、現在の日本各地の闘牛も独自に発生・発展してきたものと考えるのが無理のない解釈である。本報告では、愛媛県南予地方で行われてきた闘牛(牛のツキアイ)の発生・発展要因を考えるため、現在までの歴史的な沿革を紹介するとともに、南予地方とその周辺地域における「牛をとりまく民俗」および「相撲(角力)をとりまく民俗」を紹介し、特に牛観念に関して愛媛県の中でも地域差があることを指摘したい。その上で、闘牛の自然発生説は妥当であるとしても、それにすべて帰結するのではなく、各地の闘牛について、複合的な牛文化の共通項を探ることの可能性についても触れてみたい。

基本文献:『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』(愛媛県歴史文化博物館発行、2002)

1 「宇和島の闘牛」
 観光闘牛
  愛媛県内では、宇和島市(宇和島市営闘牛場)・愛南町(南宇和観光闘牛場)
 牛のツキアイ習俗
  宇和島市だけではなく、南予地方一帯。(図1「駄馬の分布図」参照)
  ←平成7年に文化庁から記録作成等の措置を構ずべき無形の民俗文化財に選択。
   「国指定重要無形民俗文化財」ではない。

2 闘牛の起源
 「日本各地に様々な闘牛起源説が流布されているが、闘牛(という)文化は結局人間が勝手に日時と場所、さらには闘う相手を決めて行う牛の順位競争(中略)闘牛の起源は自然発生説をとるのが最も無理がない。しかし、畜牛が行われていたのは、現在闘牛が行われている地域ばかりではない。したがって、自然発生説は最も有力な説には違いないが、これだけでは説明しきれない部分が残る。」「闘牛の分布と牛供犠の分布は見事に重なる。(中略)(日本では)不可思議なのは、闘牛を持つところに牛供犠伝承はなく、牛供犠を持っていたところに闘牛伝承はない。これはどう考えたらよいのか。残された大きな課題である。」(『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』7~9頁、石井浩一執筆より)

3 牛の飼育と闘牛
牛の飼育が盛んだからといって、闘牛が行われるわけではない。
表1「明治中期の郡別牛馬頭数一覧」(明治20年代前半)参照。南予地方:45,293戸・牛13,486頭(29.8%)、香川県:84,381戸・牛31,064頭(36.8%)。中・東予に比べて牛飼育比率は相対的に高いが、香川県に比べると低い。ただし、闘牛の特に盛んな南北宇和郡は、生産牛飼育数が突出している。
 ←農耕用・運搬用だけでなく、肉牛生産・現金収入を目的。
  ←牛売買数も多くなる。現に牛市(家畜市場)は中・東予に比べ南予は多い。
   ←現在の牛をめぐるネットワークが醸成する土壌といえるのではないか。

4 南予闘牛の沿革
「闘牛は今からおよそ200年程度前、豊後水道を航行中のオランダ帆船が、折からの暴風雨に遇い、愛媛県西外海村(現西海町)沖を漂流中、同村福浦の漁民が救助し、その船長からお礼として2頭のオランダ牛が贈られた。この牛が撫育中しばしば角を突き合って格闘したことにより始まったのが、そもそもの起源であると伝えられている。」(南宇和観光パンフより)
オランダ船が伝えたという伝承:昭和4.6.4海南新聞に、明治初年にオランダ船が難船したのを救助した御礼に牛をもらうという記事あり。
南予地方における闘牛史料:江戸時代後期以前には確認できない。安政3(1856)年野村組庄屋達書に「牛突合せ」と出る。「闘牛」の呼称は、明治10年代後半に行政文書に出てくる。
宇和島地方・・・昭和4年、「南予牛角力協会」設立~昭和23年GHQ禁止。西洋闘牛の殺伐さを嫌い「牛角力」と称す。昭和30年頃、農耕機械化で役牛減少。闘牛が衰微。昭和34年「南予闘牛振興会」設立→宇和島・津島・広見・松野で闘牛大会開催。昭和35~38年、県・市等から和霊土俵整備補助金交付、昭和36年「南予闘牛連盟」設立(市役所商工観光課内に事務局・観光闘牛化)、昭和43年から市から闘牛振興補助金交付(46~48年除き、現在に到る。)昭和49年から宇和島市観光協会が大会主催。昭和50年宇和島市営闘牛場落成。昭和60年「宇和島観光闘牛協会」設立。以後大会主催。
南宇和地方・・・昭和36年頃「南宇和郡闘牛組合」設立。昭和47年、南レク・サンパール土俵落成。「南宇和闘牛協会」設立。観光闘牛化。昭和60年「南宇和観光闘牛協会」。

5 民俗から見た愛媛の中の「南予」
民俗学的に見た愛媛県の地域区分は、実は一般的な区分とは少しく異なる。すなわち、中予の松山平野以南の伊予郡山間部から上浮穴郡をも合めた地域を広義の「南予民俗文化領域」として捉えることができる。この地域には、小正月や盆、農耕儀礼の民俗をはじめとして多くの共通する基層的な民俗が存在するとともに、芸能や祭礼の民俗にも地域的に特徴的なものが多い。しかし、南予民俗文化領域はさらに「上浮穴郡地域」と「大洲市・喜多郡地域」、そして「旧宇和郡」に分けられる。この旧宇和郡の一帯は、また「宇和地帯」とも称され、決して裕福ではなかった土地柄のなかで、独特の民俗的風土を有している。小正月や盆行事、祭礼民俗などの構造からも伺えるように、総じて多様な民俗文化を地域杜会が持つ許容量一杯に、積極的に受け入れようとする風土的な個性を有してきたといえる。見方を変えれば、それだけ多様な民俗文化を所有しているわけであるが、それは「取り込み型」または「吹きだまり型」的な民俗の保有状況ともいえる。

6 南予の牛文化―牛鬼―
①祭礼牛鬼登場の歴史的背景
 愛媛県南予地方各地の神社祭礼では、練物として「牛鬼(うしおに)」が登場する。形態は胴を牛の胴体のように竹で編み、その上を赤布や棕櫚で覆い、牛とも鬼ともつかないような形相をした頭を付け、神輿渡御の先導役として練り歩くものである。この祭礼の牛鬼の起源は明確ではなく、史料的には江戸時代中期以前に牛鬼が祭礼に登場していたと証明できる文献は確認できていない。
祭礼の練物に関する大著である植木行宣氏『山・鉾・屋台の祭り―風流の開花―』(白水社、2001年)では、山鉾・屋台・山車・曳山・だんじりなどの祭礼風流の系譜と類型が総括的に論じられているが、この中で、これらの祭礼風流が全国的に確認できるのは、都市民が個人的に蓄財することが可能となった江戸時代の中・後期以降であり、彼らの費用負担のもと、練物と総称される祭礼風流が、神社の御旅所の間を往復する神輿渡御の供奉として曳かれたり、担がれたりするようになったと指摘されている。牛鬼も祭礼の練物であり、造り物の一種である。既に拙稿「牛鬼論―妖怪から祭礼の練物へ―」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』4号、1999年)にて紹介しているとおり、祭礼の「牛鬼」の初見は、文献資料では「亀甲家文書」の天明4(1784)年の田苗真土村(現西予市宇和町)にて牛鬼を製作した費用を書き上げた文書であり、この時期にはすでに宇和島城下周辺部の村々には牛鬼が祭礼に登場していたことがわかる。推測になるが、それ直前(つまり18世紀半ば)には宇和島城下でも牛鬼は存在していたと思われ、植木氏の指摘するように、祭礼風流の登場した江戸時代中・後期にまさにあてはまる。
 また、文献資料としては二次史料となるが、明治時代初期の『立間八幡神社史料』によると、現北宇和郡吉田町の吉田祭に関して、古老の言い伝えとして、祭礼の神輿渡御を先導する猿田彦が、寛政年間に牛鬼に改められたという記述がある。これは吉田藩の中心部において、18世紀後半に神輿渡御の先導役が、猿田彦という個人単位のものから牛鬼という集団による造り物へと発展していることで、その背景として祭礼の担い手が経済的な豊かになったことも考えられる。
 この江戸時代中期に「牛鬼」が祭礼に取り入れられた契機が何だったのかは依然不明である。全国の祭礼を見渡しても「牛鬼」の練物、造り物は南予地方周辺以外では確認できないこともあり、突然変異的に祭礼の造り物として考案されたとする見方もある。
 以前、拙稿「愛媛の祭礼風流誌」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』6号、2001年)にて牛鬼について論じた際の一つの仮説として、神に供奉する動物としての牛観念を基礎として、南予地方の牛鬼が成立したとの提示している。大局的な見方になるが、一般に神に供奉する、もしくは使いとして、祭礼の中にも取り入れられている動物に馬があるが、南予地方の牛鬼や、南九州、例えば鹿児島県日置郡の牛のツクイモンなど、神を先導する動物として馬ではなく、牛を意識する地域が南日本に多いことから、牛鬼もそれに類するものであろうと考えたのである。ただし、この説は実証が困難であり、仮説の域を出るものではない。

②妖怪牛鬼との関連
 一方、「牛鬼」と言えば、喜多村●(竹かんむりに均)庭が天保元(1830)年に著した当時の百科事典的な典籍である『嬉遊笑覧』に、29種類の妖怪が紹介されているが、その中の一つとして「牛鬼」が出てくるなど、江戸時代においては妖怪として全国的にも知られていた。各種の妖怪絵巻にもビジュアルな形で紹介されている。この江戸時代の一般的な知識をもとに祭礼の造り物として牛鬼が取り入れられたとも考えることができる。ここで、江戸時代の妖怪としての牛鬼について確認しておきたい。
京極夏彦・多田克己編著『妖怪図巻』(国書刊行会、2000年)を参考に、各種の絵巻に描かれた妖怪としての牛鬼の特徴を見てみると、大きく二つにわけることができる。一つは『太平記』巻第三十二に記述されているような、全身が黒毛で覆われて、牛のように二本の角、口には牙があり、指が三本あるという特徴である。『画図百鬼夜行』(鳥山石燕、1775年)や、『百鬼夜行絵巻』(尾田淑、1832年)にはこの特徴をした牛鬼が描かれている。これらに描かれた牛鬼のイメージは『太平記』の記述をもとに創出されたものと考えられ、太平記系妖怪牛鬼と言える。もう一つは、『化物づくし』(制作年代不明)、『百怪図巻』(佐脇嵩之、1737年)、『化物絵巻』(作者不明、19世紀前半)、『十界双六』(作者不明)に描かれているような土蜘蛛系牛鬼である。これらは太平記系妖怪牛鬼とは形状が全く異なる。胴体は蜘蛛の形をしており、頭には二本の角があるという特徴で、実際の牛とはかけ離れたイメージである。先に挙げた『百鬼夜行絵巻』では、このイメージは「土蜘蛛」と名付けられて紹介されており、牛鬼とは別のものである。これは、『太平記』に出てくる牛鬼を退治した源頼光が、他の説話で土蜘蛛を退治した話もあり、これらが混同したものと推察できる。
以上の二つの牛鬼のイメージと、南予地方の祭礼牛鬼の形状とは全く異なっている。現在もそうであるし、江戸時代後期の祭礼の様子を描かれたとされる『宇和津彦神社祭礼絵巻』(宇和島市立伊達文化保存会蔵)に見える牛鬼とを比べても同様である。江戸時代に流通していた妖怪牛鬼の知識がそのまま祭礼に取り入れられ、造り物として具現化されたと断定することはできないのである。
 次に牛鬼に関する各地の口頭伝承をまとめておきたい。牛鬼という妖怪に関する口頭伝承は、西日本各地、特に福井県、三重県、和歌山県、山陰、四国、九州において数多く確認することができる。既に拙稿「牛鬼論」にて、これらの各伝承について、牛鬼が棲む場所や、風体、牛鬼による具体的な被害内容、村人の対応、退治者、退治方法、退治の結果をまとめているので詳解はしないが、牛鬼の棲むとされる場所は、淵や滝、海など水に関するところが多いことが指摘でき、水辺の妖怪としての性格が強いこと特徴といえる。また、牛鬼が女性に化けるという事例が多いが、これは『太平記』の記述に共通するものである。しかし、『太平記』では牛鬼が老婆(源頼光の母)に化けているが、山陰にて多く伝承されている濡れ女の正体が牛鬼であることや、和歌山県では美しい女性に化ける事例が多いことなどから、一概に『太平記』の記述の影響と断定できるものではない。淵に棲む妖怪として認識されることや、女性に化けるとされるといった共通点を持つものに蛇が挙げられるが、牛伝承と蛇伝承が女性原理や水との関連で結びつくのは、大局的に見ると、東アジア特に中国南部の文化と共通することである。ここでも神の使いといった聖なる動物としての牛観念との関連を考えれば、南予地方の祭礼牛鬼の成立の背景と、妖怪牛鬼の基層とが南方を一つのキーワードとして結びつく要素はあると思われる。また、牛鬼伝承が東日本には存在せず、西日本の沿岸部に多いことも、南方との結びつきを考える際に示唆的である。
 
③祭礼牛鬼の由来伝承
ここで、今一度、祭礼牛鬼の由来伝承について確認しておきたい。地元でよく知られているのは「加藤清正が朝鮮征伐文禄の役に敵を威圧するためにつくった。」とするものである。また、「喜多郡の領主戸田勝隆の家臣大洲太郎が赤布を用い、牛鬼の形をつくって猛獣の来襲を防いだのがはじめ」とされ、これらは昭和33年に刊行された『宇和地帯の民俗』にも紹介されている。それよりも古い時期に記載されたものとなると、昭和11年に愛媛県が調査した『神社に関する調査』(愛媛県立図書館蔵)に「加藤清正朝鮮征伐時ニ牛鬼デ虎ヲ追イテ兵士ノ食殺サレルノヲ助ケタノヨリ」とある。江戸時代や明治時代に記された牛鬼の記述で、これに類するものは見られない。具体的な由来伝承に関する資料で最も古いものは、現在確認できているところでは、高知県西土佐村江川崎の牛鬼に関する由来の記述である。
大正14年に刊行された『高知縣幡多郡誌』に江川崎村の牛鬼に関する由来が次のように紹介されている。
「牛鬼の由来、文禄年間豊臣秀吉朝鮮征伐の際士卒屡々虎害を蒙る、陣中に伊豫の住人にして大洲五郎なる者あり頗機智に富み牛鬼を乗出す、士卒之を擔ぎて虎に向へば虎は驚愕して逃走す以後被害なし」
牛鬼の由来については、愛媛県宇和島地方で、朝鮮出兵の際に加藤清正が敵を威圧するために用いたのがはじまりといわれ、昭和初期にはこの伝承が定着していたことがわかっている。また別の由来として、大洲太郎が赤布を用いて牛鬼を作ったのがはじまりという伝承もある。しかし、いずれも昭和初期以降に著された文献に紹介された説であり、この伝承の詳細はよくわかっていなかった。しかし、この『高知縣幡多郡誌』の記述は、具体的であり、これまで愛媛で確認していた複数の由来伝承を結びつける内容となっており、各地に伝わった由来伝承の原型を示しているといえるのではないだろうか。
 ①文禄年間の朝鮮出兵の際に、兵士が虎害を被っていた。
 ②伊予の大洲五郎が牛鬼を作って虎害を防ぐ。
 ③以後、神輿の先駆として取り入れる。
 以上の三つの文脈にわかれるが、宇和島地方では①の話が変容して「朝鮮出兵の際に加藤清正が敵を威圧するために用いた」という話になり、また②が独立して朝鮮出兵の話とは切り離され、単に「大洲太郎(幡多郡誌では五郎)が赤布を用いてつくったのがはじまり」という伝承となったのだろう。
 なお、虎退治のために牛鬼を用いたことに関連する伝承が南宇和郡御荘町にある。ここの牛鬼は、山に出る狼を退治するために、藩主伊達家の許しを得て、出したのが始まりだという。動物退治で共通することから、この話も虎退治が変容して狼退治になったのかもしれない。牛鬼の由来には謎が多いのは、それを裏付ける文献が時代的に新しいことが原因といえる。大正14年の『高知縣幡多郡誌』より以前の資料に、由来伝承の記事がないかと探している最中であるが、未だ確認できていない。これらの由来伝承は案外新しいもので江戸時代には遡れないものなのかもしれない。
もう一つ、牛鬼の由来、成立に関する説として、闘牛関連説がある。これは、南宇和歴史民俗文庫の藤田儲三氏が指摘する説である。南予地方では江戸時代に闘牛が盛んになるとともに、本来農耕用である牛に特別の餌をやり、大きくして農耕には使い勝手悪くなり、また賭博性を帯びるようになったので闘牛禁止令が出るようになった。それで困った住民が古い斗ジョウケ(一斗入りの竹かご)などに木で角を付け、古紙を張り、柿渋などを塗って頭とし、竹と棕櫚で胴体を作り、闘牛の真似をした。それが祭礼に牛鬼として取り入れられる背景となったという説である。確かに、祭礼牛鬼の角の形状を見てみると、闘牛用に仕上げるため彎曲したような寄せた角をしている牛鬼が各地に残っていることからも闘牛と牛鬼の関連は考えられる。そもそも闘牛は南予地方では「牛の突き合い」とも言われ、西予市以南、南宇和郡以北の各市町村に現在でも伝承されている娯楽・競技習俗である。南予地方の闘牛はあくまで娯楽であり、奄美地方や、沖縄、八重山諸島の闘牛に見られるような神事性は薄い。しかし、史料的には確認できないが、江戸時代以前に神事としての闘牛が存在していたことを完全に否定することもできない。藤田氏が指摘するように、闘牛習俗の存在が牛鬼成立の背景にあったことは充分考えられることである。
そう考えると、先に挙げた神に供奉する動物としての牛観念を基礎とした牛鬼成立の一説も、神事性を帯びた闘牛習俗の存在を確認できるのであれば、あながち捨てきれないのではないだろうか。

④小括
祭礼牛鬼が悪魔払いの性格を強く持ち、例えば吉田藩の牛鬼が、神輿渡御行列の先導役である猿田彦の代替として登場していることなどから、祭礼牛鬼は「鬼」役と認識される要素をもともと有していたが、既に『愛媛まつり紀行』(愛媛県歴史文化博物館、2000年)にて指摘しているように、祭礼牛鬼の形状を地域別に比べて見ると、中心部の宇和島地方では顔の形相が鬼に近く、分布域の周縁部では鬼の形相が薄く、上浮穴郡の牛鬼などはまさに牛の顔そのものであることから、もともと祭礼牛鬼はあくまで「牛」であったと考えられる。
先に述べたように、江戸時代には一般的な知識として妖怪牛鬼が知られており、また、西日本には、各地に牛鬼の口頭伝承が残っているが、これらと、由来、形態の面から祭礼牛鬼を比較すると、直接的には結びつけることはできないといえる。しかし、南予地方では祭礼牛鬼の呼称は、初見の天明年間の史料でも「牛鬼」とあるように、現在に到るまであくまで「牛鬼」と称され、定着している。この点は、江戸時代の知識に倣ったものかもしれない。
このように、牛鬼の成立を究明するには、南日本における牛観念との関連、南予地方の闘牛習俗との関連、江戸時代の妖怪牛鬼の知識との関連、各地に伝承された牛鬼の口頭伝承との関連、江戸時代中期以降の祭礼風流の発展との関連をすべて紐解かなければならない。それは日本文化の多重構造を究明するための一つの事例ともなり、大局的な日本文化論と、江戸時代以降の地域における民俗伝承論を結びつけることが可能になるようにも思える。

7 南予の相撲文化―相撲練り―
日本の闘牛の特徴は、相撲文化の影響を強く受けていることにある。横綱・大関などの番付や闘牛場を土俵と呼ぶことなど日本の闘牛は相撲に見立てることが一般的である。韓国では、トーナメント方式で行ったりするが、世界的に見ても、これは日本闘牛の特徴と言える。また、闘牛の盛んな地域は実際に相撲の盛んな場所であることも指摘することができる。
民俗文化の中での相撲を考えてみると、年中行事での相撲自体は全国的にも行われており、珍しいものではない。ただし南予は相撲文化の色濃い地域である。年中行事、例えば盆行事・八朔・秋祭りなど地元の子供・青年が相撲を行う事例は数知れないほど多い。特に南予の相撲「相撲練り」・「相撲甚句」は中・東予に見られない相撲文化であり、紹介しておきたい。「相撲練り」・「相撲甚句」とは、南予地方の神社祭礼(秋祭り)の練り行列の一つ。化粧廻しをつけた8~12名の子ども力士が円陣を組み、立行司の語る文句に合わせて踊るもので、演じる者は小学生である。神社の境内や御旅所で相撲を取ったり、祭礼の練り行列に加わったりするものであるが、この行事の分布は南予地方のみである。旧宇和島藩・吉田藩領内の分布がほとんどであるが、一部、旧大洲藩領内にも見られる。大洲市上須戒では、天保年間(1830~43)に、宇和島藩側から移入したと伝えられる。神社祭礼における相撲甚句がこれほど集中して分布する地域は全国的に見ても南予地方のみである。余談であるが、大相撲のかつての横綱前田山英五郎(保内出身)、大関朝汐太郎(八幡浜出身)、そして現在の関取玉春日(野村出身)など、相撲練りが伝承されている地域から名力士が誕生しているのも偶然ではない。幼い頃から地域に根ざした相撲文化に触れていたことも関係しているのかもしれない。

8 闘牛研究の課題
闘牛の起源は、自然発生説が無難ではある。しかし、すべてをそれだけに収斂させることにも無理がある。私が愛媛において民俗調査をしていく過程では常に、闘牛はそれのみで成立している習俗ではなく、牛飼育の歴史、牛をめぐる文化、相撲をめぐる文化、そして南予という地域性(民俗文化領域)をも含めて考えなければいけないテーマであると実感させられる。
闘牛研究では、現在、闘牛が行われている地域を、点と点で結んで、系譜論や伝播論で説明することは不可能である。それは柳田國男の「海上の道」を証明することと同じ程、困難な作業である。しかし、闘牛を伝承する各地域において、闘牛と関連するさまざまな文化的要素を探求して、それぞれの地域で闘牛が成立する背景・風土を究明しようとする研究は行われてしかるべきである。その上で、共通性・類似性が見出すことができれば、単なる自然発生説を克服することも可能である。点と点を直接的に結んだり、「道」や「経路」として闘牛文化を考えるのではなく、それぞれの「面」(地域・伝承地)を深く追求する作業であり、そこが出発点となると考える。
 なお、本報告は今回のテーマである「闘牛のネットワーク」とはいささか趣旨を異にしているが、闘牛を成立させる様々な文化的要素を、それぞれの地域で探求することから出発することは、将来的に見て、闘牛を中心に据えて、関連する文化的要素についてもネットワーク化可能な題材を発掘・認識する試みでもある。その意味でも、今回のシンポジウムの開催は、今後の闘牛研究を実証的で確実なものにしていく点で意義深い。

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