祭礼に際して、神輿とは別に、風流(装飾)を凝らして、担いだり、ひいたりする屋台のことを山車(ダシ)という。京都祇園祭の山鉾はその代表的なものであるが、ほかに、ダンジリ、曳山、山笠、太鼓台など、地域や時代によって名称や形態は様々である。愛媛県内では、新居浜市の太鼓台をはじめとして瀬戸内海沿岸地域や南予地方に「太鼓台」、「ダンジリ」、「四ツ太鼓」と呼ばれる布団太鼓が分布し、また、西条市周辺には、二、三層の彫刻を施したダンジリが有名である。それ以外にも、笹花で飾られた北条市のダンジリや、北宇和郡吉田町、西宇和郡伊方町、保内町の山車など、様々な種類の山車が登場する。
もともと、祭礼の主人公は神輿に乗って御旅所へ渡御する祭神であり、それに供奉するのが山車である。都市化が進行した現在では、伝統的な祭礼が急速に衰退、消滅しつつあるが、山車の登場する祭りは、多くの観衆を集めて活発に行なわれており、現代では神輿にかわって、祭りの中で最も注目される存在ともなっている。
さて、愛媛県内で山車というと、六種類に分類できるかと思われる。
第一には北条ダンジリのように木枠に笹竹を飾る単純な構造のものである。第二は、屋台形式で、二、三層にわたり精緻な彫刻を施したもの。つまり西条市などに見られるものである。第三に布団屋根の太鼓台である。これは新居浜太鼓台をはじめ、越智郡の「布団ダンジリ」、南予地方の四ツ太鼓もこれに含まれる。
これらは、一八世紀に東予地方では屋台が見られ、その一世紀後に太鼓台が見られ、また、明治時代初期以前には北条にダンジリが登場するという歴史的過程がある。どのダンジリの形態が古くて源流であるとの系統立ては困難であるが、形態上からは、もともと北条ダンジリのように木枠のみの単純な構造であったものに、西条ダンジリのように高欄を巡らし彫刻を施して飾り付けて派手とするか、布団を屋根に乗せ、さらに周囲を刺繍で飾って派手にするかで発達の様式が決定したものと言えるだろう。
第四に南予地方の山車が挙げられる。これは「ダンジリ」という呼称は地元では聞かれないが、人形屋台の一種で、中、東予には見られないものである。ただし、大阪の地車(ダンジリ)に共通する部分が多く、山車の一種に分類してみた。
第五は数は少ないものの県下広範囲に見られる船型山車で、第六は南予地方の祭礼の花形である牛鬼である。牛鬼は神輿渡御の露祓いから発達したもので、もともと山車とは別種のものと思われるが、現在では大型化し、祭礼の中でも布団太鼓と鉢合わせをするなど、山車的な要素も強くなっているので加えてみた。
なお、山車については、移動方法が「曳く」か「担ぐ」かがよく問題とされるが、『岩城村誌』(一九八六年)の中で、「三浦家永代記録」が紹介されており、明治十四年の「祭礼道具人別控」に各種の練物が記されている。そしてその中で「引壇尻」(西地区から出される)と「太鼓壇尻」(東地区から出される)とが並記されている。これは亀山八幡神社の秋祭りに登場したものであるが、「引壇尻」という語に注目しておきたい。なぜなら、現在は東西のダンジリとも「担ぎダンジリ」だからである。地元では、東西のダンジリともに明治二年の新調と言っているが、明治一四年の段階で「曳きダンジリ」が存在したと考える方が妥当であろう。
愛媛においては、祭礼の中で「曳いて見せる」文化は、一九世紀(以前)的なものと言え、近年では山車を担ぐことによって、「見せる」要素が強くなったと考えている。現在の西のダンジリは、明治一四年以降に新調されたというよりも、改築されて、曳く形から担ぐ形に変化したのではなかろうか。
南予地方の牛鬼についても、一九世紀に描かれた絵巻を見ると、すべて担ぎ手は胴体の中に入っているものの、現在では外に体を出して担ぐのが一般的となっている。現在でも明浜町や三瓶町では人が中に入って担いでいるが、これは古風な担ぎ方を伝承している地域なのだろう。また、西条市のダンジリも現在は人間が外に出て担げるようになっているが、「伊曽乃神社祭礼絵巻」(伊曽乃神社蔵、江戸時代末期成立)を見ても、人は中に入って担いでいる。つまり、一九世紀には、担ぐ姿を「見せる」という祭りの雰囲気ではなく、装飾を見せるのが一義だったのではなかろうか。岩城村西のダンジリも、もとは曳く形だったのが、担いで見せることを意識し、曳きダンジリから担ぎダンジリへ変容させたのだろう。このように、山車の曳き方、担ぎ方の歴史をたどっていくと、一九世紀から二〇世紀にかけての祭礼における「見せる」要素の変遷がわかり、人々の祭礼に対する思いの変化も理解できるのではないか。
*本稿は拙稿「愛媛県の祭礼山車」(『四国民俗』35号、四国民俗学会、2002年)第2章第1節の文章である。
2003年01月18日