二月二七日朝、八幡浜市文化財保護委員長の福井太郎先生が逝去された。享年八八才。先生は大学時代に国史学を専攻し、郷里の高校で教鞭をとる傍ら、八幡浜の歴史について終生、研究をされてきた。八幡浜史談会長を務めるなど郷土史の大黒柱であったし、宇和町にある県歴史文化博物館の設立に際しては南予を代表する調査研究委員会委員として活躍もされた。
私は実家が先生のご近所ということもあり、学生時代から帰省の折にはご自宅にお邪魔しては談義する機会を得ていた。東京の大学の講義で学んでいた文献史学の方法論を習得する度に先生と論議することで、大学での習熟度を郷里八幡浜で確認する場でもあった。また、私は文献史学と並行して伝承・言い伝えを取り扱う民俗学・文化論に興味を持ち、その視点で八幡浜の歴史像を描こうと考えていたが、先生は「君の言う伝承は史料には載っていないので断定はできないが、言い伝えが今に伝承されていることも、これまた歴史である」と言ってくださり、その後の私の歴史・文化論に対する姿勢を後押ししてくれたし、研究のヒントも大いに与えてくれた。
歴史学に携わる者から見て先生を一言で言うなら、文献史料に忠実で、厳正で、ストイックな歴史学者とでも言えようか。過去の文書・記録に記述されていることを丹念に、そして批判的に読み解き、そこから真実と判断できる事を一つ一つ積み重ね、結論を導き出すという手法を取っていた。史料に記載されていないような可変的もしくは曖昧な「伝承」や「言い伝え」等は傍らに置き、まずは史料から導き出せる事を主眼に八幡浜の歴史像を構築していた。歴史の一次史料から郷土史を再編成する試みでもあった。史料に載っていないことは公には語らない。歴史的事実を固める作業が第一であるという姿勢である。
地元の者が郷土の歴史を扱う場合、史料を読み解き、解釈する際には、どうしても自分に有利な方向に解釈してしまう傾向が強い。自分につながりのある過去は都合の良いように考えてしまうからだ。一般に、人が歴史に興味を抱くのは自分につながりのある過去であり、それは一種の自己確認の手段ともいえる。その視点で歴史を解釈することは「過去の現実」を知るのが目的ではなく、「過去の幻想」を自分の中で再構成する試みともいえる。先生は、そういった「過去の幻想」を追い求めるロマンチスト的な姿勢を排除し、史料から過去の現実のみを抜き出し、そこからわかる事が真実の歴史であるという姿勢を貫いていた。歴史学のリアリストであり、客観主義者であった。
市町村合併により、八幡浜が新たな枠組みで再編成されようとしているこの時期に、我々が郷土の歴史を振り返ろうとする場合、「過去の幻想」だけではなく、「過去の現実」・「歴史的事実」を踏まえておく必要がある。何事も問題を解決するには事実・現実の直視は避けられないことは普遍であるが、先生の足跡、業績、そして歴史に対する姿勢は、我々が過去を振り返る際に最も客観的な材料を提供してくれたのである。
先生は常日頃、「八幡浜人はどうして歴史に無関心なのか」と嘆いておられたが、別の見方をすれば、八幡浜人は「過去の幻想」を大切にするロマンチストではなかったというだけであって、いざ、自らの過去を直視しなければならない時期になると「過去の現実」を見つめることのできるリアリストなのかもしれない。いや、そうであってほしい。福井先生の姿勢・思想は、先生が亡き後も消えることはないし、この現代社会の荒波の中ではますます貴重になってくるのではないだろうか。
2003年03月02日 八幡浜新聞掲載原稿