





以前に、赤穂義士討ち入り後の帰還経路をウォーキングした時、コースの途中にあったのが、浅野内匠頭切腹場所となった田村右京大夫上屋敷であった。
その田村右京大夫建顕(たつあき)は一ノ関藩3万石の藩主で屋敷が釣山(岩手・一ノ関城址)の麓にあった。
そこへ義士つながりで出かけてみた。
余談だが、伊達藩62万石の領地は広く、北は岩手県北上市の南部付近まであり、現在藩境跡には表示板が建っている。
さらに余談だが、一ノ関藩初代藩主は伊達兵部で、小説「樅の木は残った」(次の探索目標予定にしていて、今月の歌舞伎座の演目にあります)では大悪人になっている。
メインに戻って義士つながりで・・・。
釣山(現在は公園)から田村邸跡を望むと、かすかに遺構が残っていた。
それは池の跡(毛越寺が世界遺産でしたら、同じ池の跡のコレは国宝にしてもよろしいと思います)で、それ以外の敷地は裁判所の建物、民家に変わっている。
昔残っていた田村家の門は現在、平泉毛越寺(世界文化遺産登録を目指しているらしい)の表門として移築されて現存している。
外様大名でありながら信頼篤かったらしく江戸城奥詰を勤めていて、松の廊下の刃傷事件が発生した時、グズグズ遅くまで居残っていたために、浅野内匠頭の預かりを指名されたとも言われる?!
たぶん、田村さんは真面目な人で、サボる事なく律儀に9-5時(時には残業も)まで勤めに励んでいたのでしょう。
なのでその家系(DNA)は明治維新まで11代180年余、伊達家の分家でありながら、武家制度が終わりを告げるまで長~く、しかも歴史に家名を刻んで続きました。