18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

ジャーナリズムの起点と我々の判断

2017-10-13 08:34:00 | 社会・経済
ジャーナリズムの起点

「なんか怪しい」から始まる。

特に政権与党に対しては「番人」としての機能を期待されているマスメディアでは政権与党内閣、政府関係者についてその嗅覚を強く働かせる傾向がある。

政治家、特に政権与党には一般に様々な権力が集中してしまう。なぜかと言えば、行政と言うのは制度と法律によって運営の骨子が決められている。これは公平性や国民の権利を守る為。

その制度は、根拠となる法律を元に定められる。その法律は「立法府」である国会で国会議員が「法案」として出して賛否を問う。

簡単にいえば、官僚は国会議員の「立法」の力が脅威でありまた欲しているのです。

話が逸れたけど、こんな風に権力(権限)が集まっちゃう国会議員の言動に目を光らせる誰かがいないとダメでしょ?と言う考え方がある。警察だって結局は国の機関なのであてにしていいのかと問われれば、100%大丈夫とは言い切れない。

なので、国家機関でもない誰かが監視して世間に報じる役目を担わないといけない。ここが根拠で、またその為の「言論の自由」が保証されており、報道に制限をかけられない事もあり多くのマスコミは政府批判こそ自分たちの役割であると認識している。

これは間違いではないし、正しい。

「なんか怪しい」と言う感覚は必要なのだ。

誰が政権を取っていようと、どんな人物が総理大臣であろうと、何党が政権与党であろうと全く関係なくその役割は必要である。


だが、


例えばである

「なんか怪しい」と考えて取材を続けていても、それが外れる事だってある。

そのあたりからだんだんマスコミの姿勢が怪しくなってくる。


「怪しい」と感じて「怪しくない」とほぼわかっても「怪しい」と言い続け、そのうちつじつま合わせをやり始める。もちろんそれは読者や視聴者を惹きつける為だ。事情を知らない読者視聴者はやはりスキャンダラスな情報を好む。いや無意識にその記事を読んでいる。

ネタが尽きそうになると、より鮮度の高いニュースやショッキングでスキャンダラスな記事を探す。
あちこちから情報の切り貼りをやらざるを得なくなる。

もうこうなるとジャーナリズムでもなんでもない。歪んだ世論を作るためだけの作為に満ちた情報になってしまう。

つじつま合わせとは、例えば加計学園問題で、一方の証言のみ時間と紙面割いて紹介しつつ、反対意見を言い訳程度に報じると言うものだったり、「加計ありきで来ました」と言う言葉だけを切り取ってみたり、マスコミ自ら情報操作や誤解を誘導する報道の仕方、言葉の使い方を工夫してとにかく批判姿勢を続ける。

繰り返すがテレビには視聴率があるし新聞は毎日発行される。そんな中、視聴者の関心を買い続ける為にも同じ問題で引っ張らないといけないと言う事情もある。

だから、とにかく「モリカケ」とディレクターが指示を出す通り、その事を扱わないわけにはいかないのである。



そして大切なことは、私たちが正しく物事を理解する事。



そんなのが日常で、まともなジャーナリズムに基づいた報道がなされるわけはないのだ。

だから、もともとテレビニュースを見ない、新聞も読まない若い世代はネットとテレビの温度差に気づき、テレビ報道や新聞報道を斜めに見ていくのである。


国会の話に戻ると、日本には色々な考え方の人がいるので、そんな人達を代表する為には、さまざまな政治政党があっていい。

少数だからと言ってた簡単に意見が潰されない様に、国会議員選挙では比例代表制を取っている。それ自体は問題ない。ただし、徹頭徹尾批判に終始しているだけでいいのかと言う事も考えたほうがいい。もしその政治家や政党が政権を担う意思があるのなら、批判するだけじゃダメだと思うがどうだろう。



今回の選挙が初選挙の人もいるでしょう。どの候補者、どの政党に投票すればいいのかわからないと言う人へアドバイス。


いみじくも国会議員なら、国の設計図を書ける人物であるべき。また近代国家制度がある以上、国と国民が政治の基盤である。その国と国民をどの様にさまざまな困難から守り成長させ発展させるのか、より豊かで幸せを実現出来る国にするのかを具体的な方法を揃えて描けなきゃいけない。

大阪では高校まで学費は無償である。
しかし一方で高齢者が負担せずにいたバス無料化をやめたりした。これこそが設計図だ。

消費税をあげる以外の方法論を示さずに、消費税税率を10%にあげるなと言うのでは設計図もなく騒いでいるだけである。

全体図を描いて、方針を公に示しどこを強化してどこを減らす。メリハリを考えた設計図でなければならない。

局所的な話に終始しているのではいけない。先に述べた通り、国民を守り、成長発展させ豊かにする国創り、国の制度を作る、諸外国との関係を作る。

どんな国にしたい、どんな国にすべきかと言う理念があり、その為の議論してくれる知識や胆力がある人を選ぶのが国政選挙である。

一人一票と言うルールの中で選ばれた人がそれを担うのである。選ぶ側の責任は重い。

マスコミの一方的な報道に影響されず。自ら情報を積極的に取りに行く。直接政治家に話を聞く。それぐらいは当たり前にやらなければならない。マスコミは必ずしも伝えるべき情報を全て伝えてくれているわけではないから。

声を上げることは大事なことである。
しかし、批判だけなら誰にでも出来る。
「叩き斬ってやる」なんて言語道断。何も解決しない単なる野次である。

人間なんだから、私たち有権者は知恵を使って問題の解決に当たろうとする人を選ぶべきでしょう。

設計図をかける人を選ぶ。知恵を使って問題解決に当たろうとする人を選ぶ。問題解決に繋がらない発言を繰り返す人たちは存在する。そんな人たちは概して声が大きいがそれが正しいとも限らないし、多くの人の声をあらわしているとも限らない。

私たち、しっかりと見極め、自分の目と耳で確かめた事を元に判断すべきだ。












学校で学ぶこと

2017-03-26 17:35:00 | 社会・経済
3月も終わりに近づいて、再来週には4月。

多くの学生たちが、新しい学年を迎える。

ところで、みんな一所懸命に勉強しているが、目標、目的ってあるのだろうか?

正直なところ、目的をもって何かを勉強しようと思ったのは中学三年生のとき。

このままじゃどこの高校にも入れないかも知れないと危機を感じた親が、せっせと参考書を大量購入してくれたので「ああ、勉強しなきゃいけないのね」と思ったときが最初。

それまでは、ただ学校にいって、ただ授業があって、授業で教えられてる内容はすべて受け身で聞いていて、ノートは取るけど、疑問も質問もなくただ、周囲は先生にあてられてすらすら答えられているのをみて、すごいなぁと思っていた。

そんな調子だから、高校受験勉強なんてやり方もなんもわからず、試験を受けたけども、まともに回答できているとは思えないが、なんとか第一希望も滑り止めも受かった。


そっからが本格的な「目的を持った勉強」が始まった。そのきっかけは、




落第である。




高校では、落第があると入学式を終えて教室に入ったときに先生に言われた。何教科何単位落とすと落第で、赤点は40点未満だったか以下だったか。

何教科何単位なんてことの意味すら分からず、ただ「おお、落第したら大変だ」と漠然と思ってこりゃ本気で勉強しなきゃと思ったのが最初。

中学の授業もまともに聞いてないし、be動詞もわかってないので正直ゼロからの勉強しなおし。
高校受験で親に買ってもらった参考書の中にたまたま良いものがあったので、それっを引っ張りだして、まず自分が「何をわかってないのか」から始めた。「何が分かってないのか」が分かってないと勉強のしようがないからだし、また「わかった!」という達成感というか、勉強の成果も見えなかったからこのアプローチは結構意味があった。

何かがうまくいかないときなんていうのは、そもそも「自分自身が何をわかってないのか」をわかってない事があったりするということを学べた。



そんなこんなで勉強をしだすと、「分かる!」が増えてくる。勉強すればした分だけ賢くなるんだということを経験できた。それからは赤点とらないように、落第しないようにという目的から、テストで満点とってやろうという風に変化し、丸暗記でいい科目は徹底して丸暗記を繰り返した。おかげで、高校二年生の時の世界史は、一学期から三学期まですべての定期テストを100点で終えた。これは決しておれ頭いいというのではなく、単に覚えてれば答えられる問題を出してくれた先生のおかげ。


そうするとおかしなもので、無意識に目的のハードルを上げていた。中学生のときに全く勉強せずに入れた高校は公立の工業高校。しかも同級生には、暴走族もいたし、ヤクザの組長の息子もいた。生徒間の暴力もあったけど、先生たちも力をもっていた。そんな環境。

一方で、中学の同級生だった奴は公立の普通科に通っていた。平均的な奴だったがあるときそいつの家に遊びに行ったとき、愕然とした。

英語の教科書が何冊もあって、グラマーだの英作だのいろいろ合わせると厚み10cm近くもあった。前述のとおりこちらは公立工業高校なので、英語は高校英語A。教科書はもちろん一冊。中学校でつかうNEW CROWNだのNEW HORIZONというあの薄さ。
「こいつらこれを一年かけて勉強するんだ。やばい、単純に10倍の勉強量だ」とおもった。


せめて、普通科高校出たやつと同じくらいの英語力つけとかなきゃ、やばいよなきっと。と工業高校であることのマイノリティを自覚していた自分は、高校卒業後に英語の専門学校に入学した。高校入学は特に目標もなく「高校ぐらい行っとけ」という世間一般程度の認識だったし、重要性など一切理解していなかったから中学の勉強はなんも覚えてない。

でも専門学校は自分で選んだ。せめて普通科高校でてるやつらと同じぐらいの英語を身に着ける。
具体的な目標を持つときわめて強力な集中力を発揮する(ことがようやくわかった)自分は、結局2年+1年専門学校に通った。

もう30年以上まえのことだが、英語があったおかげで転職にも役立った。


さて、長々と書いたけども、短期的であれ長期的であれ、目標を持つことはそこへ到達するための道をわかりやすくしてくれるし、到達するまでをしっかり自分で確認できるというメリットがあることが言いたかった。

目標や目的がないことが悪いとは言わない。目標や目的は誰かに言われて決めるものでもないから、そういう「実感」がない限り、真の意味での目標、目的は持てないから。


でも目標を持て、目的をもって頑張れと周囲がやいのやいの言ってくるし、自分自身でも目標、目的は必要だと思うなら、まずその「実感」を感じる為に自ら動き出すのはどうだろうか?

「落第がやばいから」「ずっと100点とってやろう」「せめて普通科高校レベルの英語ぐらいは」
これ全部、自分自身で決めた目標。誰に言われたわけでもない。大きな事じゃない、達成したからといってどうってことない。でも自分自身で決めたことであることが大事。



4月から不安、わくわく、いろいろな思いがあるでしょう。でも小さな目標。自分だけの目標でいいので、目標や目的をもって臨んでみるといろんな面白い事が待っているかもしれない。



目標や目的を据えないでいろんなことをやるのも人生。それは「目標や目的を決めない」という「目標」なのかもしれない。





マタハラ・セクハラ・パタハラ

2017-01-12 11:20:00 | 社会・経済
職場のハラスメントが話題になっている。


わざわざ横文字にせず「嫌がらせ」と素直に表現すればいい。

セクシャルハラスメント(卑猥表現を使った嫌がらせ)から始まり、マタハラ(マタニティ-妊婦であること-に対する嫌がらせ)、パタハラ(パタ二ティ-本来は父性という意味- 父親が積極的に育児などに参加する態度-に対する嫌がらせ)、など間接的表現や略語で表現することでハラスメントに対する罪悪感やハラスメント行為に対する恥ずかしさを消し去ってるように思える。

要するに、嫌がらせ。

職場のセクハラ、マタハラ、パタハラって要するにいい大人が、嫌がらせやイジメを会社内でやっているってこと。

嘆かわしい現実だ。

大人の年齢なのにイジメ行為を行なう。
精神的に如何に幼く未熟であるかがうかがい知れる。
全く情けない。


社内で解決部門や相談窓口を設けることは大いに結構。

でも、それってともすれば社内で留めておく手段とも取れる。

これらのハラスメントにあったら、外部機関に連絡し、外部機関は躊躇なくその組織名を公表するべきだろう。

恥の文化を持つ日本だから、その方が抑止力にもなるし企業も本気で対策を考えるだろう。相談窓口だけで足りないのだから。


同一労働同一賃金

2016-11-05 10:37:00 | 社会・経済
同一労働、同一賃金って本当に実現できるのか?

まずはそもそも論から、「賃金」は労働成果に払われているのか?労働行為そのものに対してか?あるいは能力に対してか?
賃金という言葉の定義が思考の邪魔をするなら、ならシンプルにお金としよう。

このお金。現実にはそれぞれ支払う側が決めているし、自治体毎の最低賃金はあるが、もちろんその金額も決めている。

つまり同一労働同一賃金というのは、この現実に対して何らかのルールで支払う金額を労働内容に応じて誰かが決めると言うわけで、
現実的にはあまりに実現性のハードルが高い。

誰が決めて、誰が監視するのかなんてことすらたぶん今後決まらない。



では、改めて「そもそも」の「そもそも」。



なぜ同一労働、同一賃金を言い出したのか? これは案外長い歴史があって話が脱線するので、ウィキ参照の事。



ウィキを見ればわかる通り日本でも過去にその動きがあったが、労組も財界も反対して頓挫している。
またアメリカでも法制化はされていない。要するに、難しい。



しかし出来る事はいくつかある。まずお金を払う側が、お金の支払い基準が労働か成果か能力かを明確にする。
ここでのポイントは、その基準をどちらかにしなければなないというものではなく、混在していいという発想。




例えばコンビニバイトは就労時間に応じて払う金額の部分と、例えばシフトに従って働く”労働”そのものの部分と
店長不在の場合の対応と言った”能力”の部分で金額を明確にする事から始める。




これが身近なバイトの賃金から始まると、一般企業も無視できない様になる。




この考え方を発展させると、労働契約を結んでいること自体に給料が出るという発想にも繋がる。
この発想は、お金を支払う方にもメリットがある。いわゆる勤務時間外の不祥事や緊急連絡など、
仕事時間中の出来事ではないが、労働契約を結んでいるから従わなければならない事項についても
ある程度の拘束力を持たせることができるからだ



もちろんその金額は、休んだから支払われないなんて事は無い。契約しているから発生する給料だからだ。





また、成果として支払われる部分が明確になれば、頑張って成果を出せば貰えるお金がどれだけ変わるかがわかるし、
お金を支払う側は明示しなければいけないから成果を出した人にはきちんと払わなければなら無い。
支払うお金に差をつける事に正々堂々とした理由ができる。



能力に対して支払われるお金は、お金を支払う側が、その都度決めるものと半ば固定的に払うものに分ける。
例えば商業簿記二級とか英検一級ならそれを必要とする会社はそれに固定的にお金を払う。

女子社員が何らかのパーティに上司と同行しなければならない場合、女性であると言う能力にその際のお金を払う。

イケメンや美人が接客したり、腕のいい職人にお金を払いたいがあからさまにできない事だってあるだろう。
字が綺麗、声がいいと言う理由でお金を支払っていいはず。ブ男だから払わないのではなく、イケメンと言う能力が
仕事に(直接的成果がなくても)有効に働くから払う。



こんな感じで始めた方がよほど現実的だろう。



この方が同一価値労働とかわけのわからん定義にお金を支払う側が振り回されない方法だと思うがどうだろう?




種々の法整備も必要かもしれないが、このようなアイディアは働いて貰えるお金に対する透明度が上がる事は間違いないだろう。




この件とは別だが、そもそもなぜパートやアルバイト、期間工と言った雇用の際の賃金がいわゆる正社員より安いのだろう。
労働を欲する側のわがままに応えている働き方なのだから支払われる賃金は正社員より割高であるべきだと思うがどうだろう。
この発想も、安く都合よく使われる現状を壊す第一歩ではないかと思うし、非正規が正規社員から下に見られるというのも少しは
解消されるかもしれない。








夫婦とは何か?

2016-10-30 11:37:00 | 社会・経済
結婚願望がある人と聞くと、妙に結婚がしたくてしたくて堪らない人のことを想像するかもしれないが、案外多くの独身者が結婚できたらいいなぁと考えているそうです。

一方で、結婚ってなんかメリットあるの?とか邪魔くさいとか、ずっと好きでいられるかわからないから不安とか、まあいろんな価値観があって、結婚に踏み切れない、あるいは結婚に踏み切ろうとする行動そのことを躊躇する人も多いと聞く。

確かに価値観が多様化しているから人生の過ごし方も様々。物事に対する価値観も様々なのは間違いない。

だからこそ、あなたには、あなたの結婚の価値観や人生の価値観があっていい。

誰かが、こういうからというのもあくまで参考として、自分自身の価値観を持って結婚を捉えればいいはず。

多様性の時代なんだから。



そこで、これも一つの参考として、夫婦になるという事について、こういう考え方もあるんだよというのを此処に書くことにします。



1. まず、結婚に損得、コストパフォーマンスは求めない。

力があろうがなかろうが、相手のことを信頼し支えたい、守りたいと思うかどうか。それがコストに見合わないかどうかは価値観として導入しない。子どもができたら、間違いなく親の時間もお金も子どもを育てる為に使われる。それが親の役目。ほとんどの動物は子どもが生まれれば子どもが成長するまでは面倒をみる。掛け値無しの本能の世界なので、損とか得とか関係ない感覚が求められるようになる。もし、結婚相手とは、損得でお互いに理解しあって結婚したとしても、子どもとの間では損得の契約は結べない。仮に損得の関係を結べたとして、その子どもが期待する見返りを与えてくれなかった場合、どうすればいいのだろうか?賠償請求でもするという話になるかもしれない。

2. 夫婦は社会の構成単位

夫婦になるということは、自分が被るもの、相手が被ってしまうものが当然出てくる。時間、空間、お金、感情など色々。二人がどんな価値観で結婚しようが、社会的には夫婦であると扱われる。つまり社会の構成単位となるわけだ。

近所づきあいしたくないならしたくなくてもいいけど、そのコミュニティ(社会)からその夫婦はどう扱われるのかを想像すれば、なんらかの関わり合いは持たざるを得ないだろう。子供ができるとさらにコミュニティとの関わり合いは増える。

社会の構成単位となるんだという自覚を改めて確認しておくのが必要だろう。

3. 夫婦というのは信頼関係が大前提

お互いに無防備になるのが夫婦。恋人同士や友人関係ならいわゆる「距離感」があるはず。ところが夫婦は原則的に距離感はない。もちろん相手への礼節、尊敬というものはあろうが、これは距離感の話とは違う。ある一定以上相手に踏み入れない。遠慮とでも言おうか。それが彼氏彼女の間でわきまえること。
会社の同僚、上司部下、友人、恋人それぞれわきまえるものがあるはず。夫婦には夫婦としてわきまえるものがあるが、一般には互いに時間、空間、感情、経済を共有しているわけだから、友人、恋人とは違う。

相手の信頼を裏切れば、夫婦関係は破綻である。許してもらえるという考えも、許さないという考えもおかしい。信頼は裏切ってはいけない。




夫婦になって起こる生活の変化。子どもができて変わる環境と責任。それを互いに守り合い支え合い信頼しあい、互いの時間、空間、感情、お金を相手の為に使い続ける。それが結婚の覚悟だろうと考える。

我慢しあうのではなく、共有しあう。感情の爆発の前に、感情の共有が先にくる、信頼の大切さを知っているから裏切らない。そうしていくうちに相手が、唯、一無二の人になる。恋人同士の愛情が夫婦としての愛情に変わる。失敗してもここに戻ってこれることが夫婦というものの価値なのではないかと思う。