この冬休みに幾つか買った本のうちの一つが”「少年A」この子を生んで・・・・・・”だ。神戸の連続児童殺傷事件の犯人である少年Aの父母の手記である。
この事件は1997年に起こった、衝撃的すぎる事件だった。あれからもう9年が経過しようとしている。手記が最初に発行されたのが1999年。文庫本化されたのが2001年、2005年6月で文庫本が第16刷ということだから関心が決して失せていないことがわかる。
少年Aの両親の苦悩が未だに消えず、さらには決して許してもらえない被害者家族に対する言葉にしよう無い謝罪の気持ちが渦巻いていることもわかる。何が原因でそんな事件を起こしてしまったのか、おそらく自分たちに問題があるはずだが、それがはっきりしない。しかし起こしてしまった取り返しのつかないことは厳然として存在している。何から手をつければいいのか混乱してしまうのも無理はない。
この本の中で書かれている少年Aの像は、もちろん父母から見た面のみ書かれているが、表面的にはそれこそ取り立てて異常な行動をとっているようには見えない。同じような行動や態度を示す中学生などざらに存在している。”時には暴力をふるい、友達とケンカをする。時には優しい面を見せる。成績は悪いが、国語や絵が得意だ。外で活発には遊ばないが、手伝いはよくする。万引きしたり、タバコをすったりしたこともある。”ごくごく普通の中学生か、ちょっとグレたりしている場合の行動となんら”表面上”は変らない。
よく”あいつは何を考えているのかわからないときがある”という表現で人の性向を言うときがあるが、そういう性向を持っている人は大抵は、自分に対して向き合っている時間が長いものだ。物質的な興味よりも、精神的な興味や、観念的な事象に対する関心が高い場合が多い。
「人は何のために生まれてきたのか?」「成績がいいとはどういうことか?」「なぜ人は生まれながらにして平等ではないのか?」「自分のような劣等生には未来がないのになぜ生きているのか?」「なぜ貧困にあえぐ人がいて、お金にこまらない人がいるのか?」という「なぜ」の連続。
一方で、肉体の存在が、結局「生」への執着を自覚させ、結局その狭間で精神が激しく揺れうごくのだ。ダメというレッテルを自らに貼る一方で、自らの存在を消し得ない事実。自分自身の価値に対する疑問を抱きつつも、自らの存在を認めざるを得ない”命”の存在。そのバランスが崩れた時に人は自殺を選択するが、”命への執着”の自己弁護の為に、理由を見つける旅が始まって、それがあらぬ方向に進み、おそらく本人でさえ予想もしなかった行動に出るのだろう。
「自己の否定」と「自己の存在」の葛藤。いったいどういう目的をもってヒトは生まれてくるのか、その存在意義は何なのか?など、それこそ未熟な精神状態の時期や、思春期にどうどう巡りの自問自答を繰り返すのだ。特に劣等感にさいなまれてい多感な時や、無気力な自分自身に対する自問からこういう旅が始まるように思う。
自分という存在は、幼児期は家族や両親との関係のなかで見つけるものだし、成長してゆくに従って周囲の環境の中で形成されてゆくのだが、それには必ず精神的なこのような自問自答が意識、無意識にかかわらずあるはずだ。それが例えば普通の学校の成績だったり、何か得意な物があったりして周囲との関係を作れていれば、内側への追求へは進まないか、抑制されるが、そういう関係がうまく作れていない場合や、あまりにも強い劣等感がある場合など、内への追求が進むのは当然だ。
少年Aはあまり物事に関心がなかったと手記に記されている。勉強やスポーツなども特に関心がない。自ら何かをやりたいと言い出すようなこともあまり無く、自ら少林寺拳法を習いたいといいだした時は父母ともに喜んだとある一方で、中傷などについては相当な執着心を持っていたとある。
詳細に見れば、この少年Aが何に関心があったのかがなんとなくわかってくる。彼が関心があったのはそのような原理的な精神世界への関心なのではないか。
たまたま少年Aの両親が、思春期にそのような悩み方をしなかったか、あまり深く考えることなくその時期を過ごしたかのどちらかで、少年Aが悩んでいるのを感じ取ることができなかったのではないか。両親が少年Aの事をわからないままでいるのも無理はない。
ただ、そのような精神世界の追求はさまざまな事で抜け出したり、あるいははまったりすることになる上に、拡大の限界もないし、連鎖の速さも限度がないから、一度なんらかのはずみでタガがはずれるとどんなことになるかは予想がつかない。
少年Aが起こした、説明するのもおぞましい事件と、それに関係した多くの人々の苦悩、変えられた人生。一方どこにでも現れる可能性がある第2の少年A。
本当の意味で子供の気持ちをわかるということの難しさがこのような悲惨な事件を通して教えられることはつらいことだ。また今、子供を育てている親たち、育てようとしている親たちも、画一的な価値観や見方で子供の言葉を聞くだけではなく、自分たちも同じように悩んだ思春期の気持ちを思い出して、子供の気持ちをくみ取ることを願いたい。もしもそれほど悩んだ記憶がなければ、数多くの悩める子供達の声を聞く機会を持っておくほうがいい。
想像以上に複雑で入り組んで説明しきれない精神世界はそれぞれの個人の宇宙なのだから、”わかろう”なんてしても無理なのだ。例えそれが親子関係であっても。子供が未熟な小学生や中学生に思えても精神世界は大人と同じように無限の広がりを持っているのだ。ただただ、自分の宇宙と相手の宇宙との間でのコミュニケーションをとることから始めることをおすすめする。
「少年A」この子を生んで・・・・・・
文春文庫
「少年A」の父母:著
ISBN4-16-765609-4
定価(514円+税)
この事件は1997年に起こった、衝撃的すぎる事件だった。あれからもう9年が経過しようとしている。手記が最初に発行されたのが1999年。文庫本化されたのが2001年、2005年6月で文庫本が第16刷ということだから関心が決して失せていないことがわかる。
少年Aの両親の苦悩が未だに消えず、さらには決して許してもらえない被害者家族に対する言葉にしよう無い謝罪の気持ちが渦巻いていることもわかる。何が原因でそんな事件を起こしてしまったのか、おそらく自分たちに問題があるはずだが、それがはっきりしない。しかし起こしてしまった取り返しのつかないことは厳然として存在している。何から手をつければいいのか混乱してしまうのも無理はない。
この本の中で書かれている少年Aの像は、もちろん父母から見た面のみ書かれているが、表面的にはそれこそ取り立てて異常な行動をとっているようには見えない。同じような行動や態度を示す中学生などざらに存在している。”時には暴力をふるい、友達とケンカをする。時には優しい面を見せる。成績は悪いが、国語や絵が得意だ。外で活発には遊ばないが、手伝いはよくする。万引きしたり、タバコをすったりしたこともある。”ごくごく普通の中学生か、ちょっとグレたりしている場合の行動となんら”表面上”は変らない。
よく”あいつは何を考えているのかわからないときがある”という表現で人の性向を言うときがあるが、そういう性向を持っている人は大抵は、自分に対して向き合っている時間が長いものだ。物質的な興味よりも、精神的な興味や、観念的な事象に対する関心が高い場合が多い。
「人は何のために生まれてきたのか?」「成績がいいとはどういうことか?」「なぜ人は生まれながらにして平等ではないのか?」「自分のような劣等生には未来がないのになぜ生きているのか?」「なぜ貧困にあえぐ人がいて、お金にこまらない人がいるのか?」という「なぜ」の連続。
一方で、肉体の存在が、結局「生」への執着を自覚させ、結局その狭間で精神が激しく揺れうごくのだ。ダメというレッテルを自らに貼る一方で、自らの存在を消し得ない事実。自分自身の価値に対する疑問を抱きつつも、自らの存在を認めざるを得ない”命”の存在。そのバランスが崩れた時に人は自殺を選択するが、”命への執着”の自己弁護の為に、理由を見つける旅が始まって、それがあらぬ方向に進み、おそらく本人でさえ予想もしなかった行動に出るのだろう。
「自己の否定」と「自己の存在」の葛藤。いったいどういう目的をもってヒトは生まれてくるのか、その存在意義は何なのか?など、それこそ未熟な精神状態の時期や、思春期にどうどう巡りの自問自答を繰り返すのだ。特に劣等感にさいなまれてい多感な時や、無気力な自分自身に対する自問からこういう旅が始まるように思う。
自分という存在は、幼児期は家族や両親との関係のなかで見つけるものだし、成長してゆくに従って周囲の環境の中で形成されてゆくのだが、それには必ず精神的なこのような自問自答が意識、無意識にかかわらずあるはずだ。それが例えば普通の学校の成績だったり、何か得意な物があったりして周囲との関係を作れていれば、内側への追求へは進まないか、抑制されるが、そういう関係がうまく作れていない場合や、あまりにも強い劣等感がある場合など、内への追求が進むのは当然だ。
少年Aはあまり物事に関心がなかったと手記に記されている。勉強やスポーツなども特に関心がない。自ら何かをやりたいと言い出すようなこともあまり無く、自ら少林寺拳法を習いたいといいだした時は父母ともに喜んだとある一方で、中傷などについては相当な執着心を持っていたとある。
詳細に見れば、この少年Aが何に関心があったのかがなんとなくわかってくる。彼が関心があったのはそのような原理的な精神世界への関心なのではないか。
たまたま少年Aの両親が、思春期にそのような悩み方をしなかったか、あまり深く考えることなくその時期を過ごしたかのどちらかで、少年Aが悩んでいるのを感じ取ることができなかったのではないか。両親が少年Aの事をわからないままでいるのも無理はない。
ただ、そのような精神世界の追求はさまざまな事で抜け出したり、あるいははまったりすることになる上に、拡大の限界もないし、連鎖の速さも限度がないから、一度なんらかのはずみでタガがはずれるとどんなことになるかは予想がつかない。
少年Aが起こした、説明するのもおぞましい事件と、それに関係した多くの人々の苦悩、変えられた人生。一方どこにでも現れる可能性がある第2の少年A。
本当の意味で子供の気持ちをわかるということの難しさがこのような悲惨な事件を通して教えられることはつらいことだ。また今、子供を育てている親たち、育てようとしている親たちも、画一的な価値観や見方で子供の言葉を聞くだけではなく、自分たちも同じように悩んだ思春期の気持ちを思い出して、子供の気持ちをくみ取ることを願いたい。もしもそれほど悩んだ記憶がなければ、数多くの悩める子供達の声を聞く機会を持っておくほうがいい。
想像以上に複雑で入り組んで説明しきれない精神世界はそれぞれの個人の宇宙なのだから、”わかろう”なんてしても無理なのだ。例えそれが親子関係であっても。子供が未熟な小学生や中学生に思えても精神世界は大人と同じように無限の広がりを持っているのだ。ただただ、自分の宇宙と相手の宇宙との間でのコミュニケーションをとることから始めることをおすすめする。
「少年A」この子を生んで・・・・・・
文春文庫
「少年A」の父母:著
ISBN4-16-765609-4
定価(514円+税)