女優高木美保の那須高原での生活は、前回書いたとおりだが。あるとき彼女の那須の家に親戚か友人の家族が都会からやってきたそうだ。その家族には小学生ぐらいの男の子が居て、虫やカエルがたいそう気に入ったそうだ。
そして、どうしてもカエルを持って帰りたいと言って、ペットボトルにカエルを入れたのだが、高木美保が、「カエルってどうやって生きているか知ってる?」「虫を食べるんだよ。」「虫を捕まえて、あげなきゃいけないんだよ。」「ちゃんとできるかな?」と彼に話をしたのだそうだ。最初は、「ちゃんとできる。」と言っていたそうだが、よく考えてみれば、都会にハエや蚊がそんなに簡単に見つけられるわけでもないことに気づいて、最後には、やっぱり田んぼに帰して上げることにしたのだそうだ。
高木美保曰く、カエルの事を考えて上げるか、自分の”持って帰りたい”という欲を優先するか、幼いながらも彼は”哲学”していたのがよく分かったのだそうだ。
こういうシーンは昔、よくあったように思う。子どもに問いかけ、考えさせて、自分の気持と、でもやっぱりカエルの為には、という2つの葛藤のなかから1つの選択をするのを待っている大人の姿。
高木美保が、那須の生活をしているからこそ、子どもに対してそういう接し方ができたのかもしれないが、でも、田舎に住んでいながらも都会的生活をしていたり、都会に住む私たちは、子どもにたいしてそんな接し方が十分にできているのだろうかと改めて考えさせられた。
親が子どもに考えさせずにすぐに結論を出す。こどもの中で”葛藤”そして”辛抱”ということを繰り返すこともなく、ただ単に”辛抱”を強要され、いや、最近だと、”辛抱”を強要されることもなく、”欲望”のままにいろんなものを手に入れることができる、モノに恵まれた生活になんの疑問も抱くこともなく子どもが成長する。
その子どもたちがいまちょうど30代の親の世代になっている。いまこの世代の人たちを中心に、何が起っているのかは改めて書くまでもない。そうなのだ幼いままなのだ。
詰め込み教育が疑問視され、偏差値教育が社会の批判を浴びて、ゆとり教育を提唱しても、教育の本質をしっかり見据えていない限りは”実”を付けることは決してない。
学校がすべき教育、家庭ですべき教育、それぞれがそれぞれの場でしっかりと子ども達に対して”考える”ことを増やさなければならない。
親としてやるべきことの一つに子の教育があるのだが、家庭での教育は単にルールを教えたりするだけではなく、生活の中で考えさせることもじっくり時間をかけなければならない。
また学校でやるべき教育も、進学の為の教育だけではなく、集団生活を通じて、さまざまな考え方の違いや、個性をどのように認め活かすのかを考えさせなければならない。
異質を排除するだとかなんて言語道断である。そういうことを理解している教師や校長はいったい何人いるのだろうか?
学校教育の中で教えるべき事はなにですか?と教師ひとりひとりに問えばいい。もちろん学校長にだって問えばいい。そしてその事に対して具体的にどのような事をしているのか訊けば、学校で何が起っているのかが分かるはずだ。教育の本質をしっかり押さえていない、学校教員という肩書きをもつ事務員達には教育を任せてはいけない。学校長という事務員にも用は無い。教育委員会という名の事務所は要らない。
教育とは家庭でも、学校でも考えさせることなのだ。その為に授業があり、クラブ活動があり、学級があるのだ。その為に家庭での会話があり、お正月があり、お盆があり、家族旅行があり、年中行事があるのだ。
そして、どうしてもカエルを持って帰りたいと言って、ペットボトルにカエルを入れたのだが、高木美保が、「カエルってどうやって生きているか知ってる?」「虫を食べるんだよ。」「虫を捕まえて、あげなきゃいけないんだよ。」「ちゃんとできるかな?」と彼に話をしたのだそうだ。最初は、「ちゃんとできる。」と言っていたそうだが、よく考えてみれば、都会にハエや蚊がそんなに簡単に見つけられるわけでもないことに気づいて、最後には、やっぱり田んぼに帰して上げることにしたのだそうだ。
高木美保曰く、カエルの事を考えて上げるか、自分の”持って帰りたい”という欲を優先するか、幼いながらも彼は”哲学”していたのがよく分かったのだそうだ。
こういうシーンは昔、よくあったように思う。子どもに問いかけ、考えさせて、自分の気持と、でもやっぱりカエルの為には、という2つの葛藤のなかから1つの選択をするのを待っている大人の姿。
高木美保が、那須の生活をしているからこそ、子どもに対してそういう接し方ができたのかもしれないが、でも、田舎に住んでいながらも都会的生活をしていたり、都会に住む私たちは、子どもにたいしてそんな接し方が十分にできているのだろうかと改めて考えさせられた。
親が子どもに考えさせずにすぐに結論を出す。こどもの中で”葛藤”そして”辛抱”ということを繰り返すこともなく、ただ単に”辛抱”を強要され、いや、最近だと、”辛抱”を強要されることもなく、”欲望”のままにいろんなものを手に入れることができる、モノに恵まれた生活になんの疑問も抱くこともなく子どもが成長する。
その子どもたちがいまちょうど30代の親の世代になっている。いまこの世代の人たちを中心に、何が起っているのかは改めて書くまでもない。そうなのだ幼いままなのだ。
詰め込み教育が疑問視され、偏差値教育が社会の批判を浴びて、ゆとり教育を提唱しても、教育の本質をしっかり見据えていない限りは”実”を付けることは決してない。
学校がすべき教育、家庭ですべき教育、それぞれがそれぞれの場でしっかりと子ども達に対して”考える”ことを増やさなければならない。
親としてやるべきことの一つに子の教育があるのだが、家庭での教育は単にルールを教えたりするだけではなく、生活の中で考えさせることもじっくり時間をかけなければならない。
また学校でやるべき教育も、進学の為の教育だけではなく、集団生活を通じて、さまざまな考え方の違いや、個性をどのように認め活かすのかを考えさせなければならない。
異質を排除するだとかなんて言語道断である。そういうことを理解している教師や校長はいったい何人いるのだろうか?
学校教育の中で教えるべき事はなにですか?と教師ひとりひとりに問えばいい。もちろん学校長にだって問えばいい。そしてその事に対して具体的にどのような事をしているのか訊けば、学校で何が起っているのかが分かるはずだ。教育の本質をしっかり押さえていない、学校教員という肩書きをもつ事務員達には教育を任せてはいけない。学校長という事務員にも用は無い。教育委員会という名の事務所は要らない。
教育とは家庭でも、学校でも考えさせることなのだ。その為に授業があり、クラブ活動があり、学級があるのだ。その為に家庭での会話があり、お正月があり、お盆があり、家族旅行があり、年中行事があるのだ。