最近急速に聞かなくなった、教師によるいじめだが、深夜ラジオを聞いていてもリスナーの高校生が教師によるいじめについてパーソナリティに相談しているのを聞いたことがある。
それに絡んで思い出したことがある。昔々、もう30年以上前でもやはりいじめに近い物があった。
体育教師がよくやっていた。ちょっと運動神経の鈍い生徒を”下手の手本”としてさらし者にしたり、出来もしないことを何度もやらせているのだ。
できるようになるまで頑張ろう!先生も最後まで付合うぞ!なんて言葉も一切ない。観ている周囲の生徒のほうが気の毒がったり、いやな気分にさせられたものだ。
本当に「こいつら教師か?」と思うことを、今も昔もやっていたのだ。
ただ昔と今が違うのは、その程度の差だ。なんだかんだといいながら昔は「あまりひどくならない」うちに教師の方から止めていた。しかし、今は違う。執拗に繰り返し集中していじめる。もしかしたら「いじめている」事自体に気がついていないのかも知れないと思う程である。
しかしそのラジオのリスナーの高校生の話によると、先生も気付いているのだそうだ。女子に肉体的特徴を揶揄する言葉をはいて、泣きながら出て行った女子生徒をそのままに、何事もなかったかのようにホームルームを続けたそうである。
こういう教師は「クソ」である。生徒はそんな教師に従う必要はない。そんな教師は明確に糾弾して辞めさせる権利が生徒にはある。教師には教員免許が必要だが、免許だけでする仕事ではない。学校生活の中で教師という役割の中で直接的に、あるいは間接的に若い生徒を、知識、知能、教育、学習という面で育てるのだ。また昼間の大半の時間を過ごすことになる学校生活の中で自然と必要となる情緒教育、人を思いやる心を育てることになるのである。学習要領には存在しないことだって、人と人が生活する間では教えなければならないのだ。
そういうことが分からない教師もどき達はとっとと教師という仕事を辞するべきである。
どんな仕事であっても、資格や免許だけでは成り立たない。情緒をきちんと理解し、人格を尊重する、そういう姿勢が常に必要である。たとえ相手が自分よりも遙か年下で、未熟であっても。
それに絡んで思い出したことがある。昔々、もう30年以上前でもやはりいじめに近い物があった。
体育教師がよくやっていた。ちょっと運動神経の鈍い生徒を”下手の手本”としてさらし者にしたり、出来もしないことを何度もやらせているのだ。
できるようになるまで頑張ろう!先生も最後まで付合うぞ!なんて言葉も一切ない。観ている周囲の生徒のほうが気の毒がったり、いやな気分にさせられたものだ。
本当に「こいつら教師か?」と思うことを、今も昔もやっていたのだ。
ただ昔と今が違うのは、その程度の差だ。なんだかんだといいながら昔は「あまりひどくならない」うちに教師の方から止めていた。しかし、今は違う。執拗に繰り返し集中していじめる。もしかしたら「いじめている」事自体に気がついていないのかも知れないと思う程である。
しかしそのラジオのリスナーの高校生の話によると、先生も気付いているのだそうだ。女子に肉体的特徴を揶揄する言葉をはいて、泣きながら出て行った女子生徒をそのままに、何事もなかったかのようにホームルームを続けたそうである。
こういう教師は「クソ」である。生徒はそんな教師に従う必要はない。そんな教師は明確に糾弾して辞めさせる権利が生徒にはある。教師には教員免許が必要だが、免許だけでする仕事ではない。学校生活の中で教師という役割の中で直接的に、あるいは間接的に若い生徒を、知識、知能、教育、学習という面で育てるのだ。また昼間の大半の時間を過ごすことになる学校生活の中で自然と必要となる情緒教育、人を思いやる心を育てることになるのである。学習要領には存在しないことだって、人と人が生活する間では教えなければならないのだ。
そういうことが分からない教師もどき達はとっとと教師という仕事を辞するべきである。
どんな仕事であっても、資格や免許だけでは成り立たない。情緒をきちんと理解し、人格を尊重する、そういう姿勢が常に必要である。たとえ相手が自分よりも遙か年下で、未熟であっても。