2019年12月1日:ブラタモリを視聴(み)ましたか?ー第2弾ー
2019年11月30日(土) 午後7:30~午後8:15(45分)NHKで放映されました。
「「岡山~“岡山といえば桃太郎”なのはナゼ?」と題して、桃太郎伝説の新たな見方が紹介されました。」と、紹介しましたが、その根拠と思われる史料についての追加の紹介をします。
1.根拠出典は何か
出典史料と思われる『鬼城縁起写』について、放映内容と関連史料を紹介します。
放映された映像(著作権未了承)
根拠は先頭の文章で「人王七代・・」から始まる漢文に返り点の補記があります。
これは、多くの翻刻(手書き文字を活字化したもの)史料があります。
ここでは、以下のものを紹介します。
・鬼城縁起(圓會僧正謹筆)備中誌
『備中誌』嘉永6年(1853)成立(編集?)(昭和47年復刻、日本文教出版)(漢文)
・[備中誌賀陽郡中(巻之八)明治37年4月31日発行 岡山縣]近代デジタルライブラリより
最後に、「延長元年二月五日(923) 菩提寺沙門圓會僧正謹筆」とあります。
(注)菩提寺は江戸末期まで鬼ノ城の西の新山にあった山岳仏教寺院の一つです。
なお、詳しくは、「史料:鬼城縁起」(私のHP)もご笑覧ください。
さらに、「鬼城縁起」と題して要約と読み下しのくずし字の「吉備津大明神」とその翻刻もあります。
2.大和に対抗できる吉備の勢力の根拠
楯築遺跡については、郷土史を深めるきっかけとなったもので、主な発掘者の近藤義郎先生(当時岡山大学名誉教授)の研究成果や同窓で郷土史家(古代祭祀研究者)の薬師寺真一先生の著作等多くの史料があります。ネットで検索されればすぐ分かります。
吉備勢力の源となるものも、水田集落群とその中心にある津(港で和名抄では都宇(つう)郡)、さらに製塩業、製鉄業も近郊で栄えていた弥生・古墳時代の遺跡も各報告書(川入遺跡で検索)で確認できます。
造山古墳に代表される古墳時代古墳群をその富の結果とみる説が主流のようですが、その前の墳丘墓と孤帯文(特殊器台へ)に着目した大和朝廷への展開は、まさに近藤先生の説に沿うものでした。
3.石でできた鬼ノ城
鬼の住処、鬼ノ城への導入部として、池の下(総社市西阿曽)の土塁が紹介されています。
鬼ノ城導入部が、地元奥坂の風景で始まります。
ここから鬼ノ城西門がよく見え、私も定点観察点として記録しています。
以下の写真が「この辺」の文字のすぐ上の石仏です。
この付近から鬼ノ城西門が遠望できます。
土塁については、放映された画像を参考に、
なお、詳細については、「血吸川を歩く(①新池)」(私のHP)もご笑覧ください。
4.鬼を祀る御竈殿
ここでは、御竈殿の鉄釜について補足説明します。
総社市西阿曽に江戸末期栄えた鋳物師集団がいました。(現在の鉄釜は違います。)
近世の御釜殿の釜を阿曽の鋳物師が約60年毎に寄進したことが中金屋に伝わる「御釜鋳替奉納覚」からわかります。最初は天和元年(1681)、元禄9年(1697)、宝永6年(1710)、寛政2年(1790)との記録があり、その後は嘉永5年(1852)、大正9年(1920)で最後になったようです。
なお、詳細については、「血吸川を歩く(⑤鋳物の灯籠)」(私のHP)もご笑覧ください。
土塁についての報告書は、「鬼城山」国指定史跡鬼城山環境整備事業報告 2011年3月 岡山県総社市教育委員会 の「第6章 鬼ノ城について 高橋護 鬼ノ城に先行する城塞について」P187にあります。
参考文献
1.鬼城縁起について
[備中誌賀陽郡中(巻之八)明治37年4月31日発行 岡山縣]近代デジタルライブラリ
(注)放映された文書には返り点がついていました。
2.楯築遺跡について
楯築弥生墳丘墓の研究 近藤義郎 1992
『倉敷市楯築弥生墳丘墓発掘調査概要報告』 1987 楯築弥生墳丘墓発掘調査団
(注)いずれも未読ですが、近藤氏は発掘調査を主導された岡山大学の先生でした。
3.土塁について
参考文献4.の「第6章 鬼ノ城について 高橋護 鬼ノ城に先行する城塞について」P187
4.鬼城山について
「鬼城山」国指定史跡鬼城山環境整備事業報告 2011年3月 岡山県総社市教育委員会
以上
2019年12月4日補足