第65回日青協定期大会特別決議被爆・戦後70年 不戦の誓い―「青年は二度と銃を取らない」思いを今こそ―
1945(昭和20)年、今から70年前の我が国は第二次世界大戦下にありました。沖縄県では国内で唯一と言える地上戦が繰り広げられ、「鉄の暴風」と呼ばれる激しい艦砲射撃が水平線を埋めつくす無数の艦船から住民に襲いかかりました。皇民化教育と軍民一体化政策を推し進めた結果、多くの住民が強制的に、しかも集団で死に追いやられた「集団自決」が軍命により行われました。住民を守るはずの軍隊が、国体を守るために子どもを含めた多くの住民を犠牲にした沖縄戦は、6月23日、第32軍司令官牛島中将が自決し組織的戦闘は終結しました。
我が国の至る所では空襲などにより凄まじい被害や犠牲が見られ、人々の暮らしは常に脅かされ不安な日々を余儀なくされました。8月6日、広島に原子爆弾(原爆)が投下され、まちは一瞬にして無惨な姿となり、およそ14万人の命を失いました。そして8月9日、長崎にふたたび原爆が投下されまちは壊滅、約7万4千人が犠牲となりました。8月15日、2つの原爆によりあまりに大きな犠牲を受けた我が国はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦はようやく終わりました。米国占領下の1947(昭和22)年5月3日、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義をうたった日本国憲法が大日本帝国憲法にかわり我が国の最高法規として制定されました。
戦場からふるさとに戻り、荒れ果てたふるさとの姿を目の当たりにした青年たちは、ふるさとを再興すべく仲間とともにもう一度青年団を立ち上げ、1951(昭和27)年5月、日本青年団協議会を結成しました。1952(昭和27)年サンフランシスコ講和条約の発効を記念して開催された第1回全国青年大会にご臨席された三笠宮殿下は「なんといってもふたたび日本人が武装して国外に出ないということを、みなさんにはっきり持っていただきたい」と挨拶され参加者に感銘を与え、「青年は二度と銃を取らない」と平和への努力を固く誓い合いました。心から平和を希求した青年たちは、敗戦の経験をいかし平和と民主主義をもとにアジアや世界の青年たちと力を合わせていこうと、中国、ソ連、朝鮮民主主義人民共和国などとの交流をひろげていきました。被害と加害の歴史と実相を学ぶため、沖縄、松代(長野県)での学びを経て、1995(平成7)年5月、ソウルを訪ねた際、戦前・戦中を通して、アジアの各地に多大な犠牲を強いた歴史と経験を悔い、被爆・戦後50年にあたり、被害の歴史と韓国の人の思いにふれた「不戦の誓い」を確認しました。
現在の我が国では、憲法改正の動きや新たな安全保障体制を構築する動きが着実につくられ、戦争に荷担する歴史が繰り返されようとしています。こうした動きに賛同する若者も少なくありません。被爆・戦争体験者が減り続ける一方で、戦争を知らない世代が増え続け、戦争の悲惨さや壮絶さを理解することが少しずつ困難になりつつあります。世界に目を転じれば、テロリズムに共感する格差と貧困の狭間で生きるごく普通の若者が、罪のない子どもたちや女性、高齢者などを殺りくする事件が後を絶ちません。戦争は決してゲームなんかではない。人と人とが、時には家族をも、時には仲間をも、時には愛する人をも憎しみあい、傷つけあい、殺し合う、人類の歴史の中で最も惨たらしいものです。
広島、長崎の原爆により生涯を通して原爆被害に悩み苦しみ続ける被爆者から青年団が学んだことは、報復しないという不戦の哲学でした。報復の思想は新たな憎しみや怒り、暴力の構造を連鎖させるだけです。 ここに集まった一人ひとりが、悲惨な戦争の歴史を二度と繰り返さない決意を固くし、それぞれの地域、職場、学園等々様々な機会を通して多くの人々に伝えていくとともに、正しい歴史教育の実現を求めていきます。そして、日本国憲法の理念を尊重し、過去の歴史に学び、改めて青年は二度と銃を取らないことを固く誓い、被爆・戦後70年にあたる宣言とします。
2015年5月5日日本青年団協議会第65回定期大会
1945(昭和20)年、今から70年前の我が国は第二次世界大戦下にありました。沖縄県では国内で唯一と言える地上戦が繰り広げられ、「鉄の暴風」と呼ばれる激しい艦砲射撃が水平線を埋めつくす無数の艦船から住民に襲いかかりました。皇民化教育と軍民一体化政策を推し進めた結果、多くの住民が強制的に、しかも集団で死に追いやられた「集団自決」が軍命により行われました。住民を守るはずの軍隊が、国体を守るために子どもを含めた多くの住民を犠牲にした沖縄戦は、6月23日、第32軍司令官牛島中将が自決し組織的戦闘は終結しました。
我が国の至る所では空襲などにより凄まじい被害や犠牲が見られ、人々の暮らしは常に脅かされ不安な日々を余儀なくされました。8月6日、広島に原子爆弾(原爆)が投下され、まちは一瞬にして無惨な姿となり、およそ14万人の命を失いました。そして8月9日、長崎にふたたび原爆が投下されまちは壊滅、約7万4千人が犠牲となりました。8月15日、2つの原爆によりあまりに大きな犠牲を受けた我が国はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦はようやく終わりました。米国占領下の1947(昭和22)年5月3日、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義をうたった日本国憲法が大日本帝国憲法にかわり我が国の最高法規として制定されました。
戦場からふるさとに戻り、荒れ果てたふるさとの姿を目の当たりにした青年たちは、ふるさとを再興すべく仲間とともにもう一度青年団を立ち上げ、1951(昭和27)年5月、日本青年団協議会を結成しました。1952(昭和27)年サンフランシスコ講和条約の発効を記念して開催された第1回全国青年大会にご臨席された三笠宮殿下は「なんといってもふたたび日本人が武装して国外に出ないということを、みなさんにはっきり持っていただきたい」と挨拶され参加者に感銘を与え、「青年は二度と銃を取らない」と平和への努力を固く誓い合いました。心から平和を希求した青年たちは、敗戦の経験をいかし平和と民主主義をもとにアジアや世界の青年たちと力を合わせていこうと、中国、ソ連、朝鮮民主主義人民共和国などとの交流をひろげていきました。被害と加害の歴史と実相を学ぶため、沖縄、松代(長野県)での学びを経て、1995(平成7)年5月、ソウルを訪ねた際、戦前・戦中を通して、アジアの各地に多大な犠牲を強いた歴史と経験を悔い、被爆・戦後50年にあたり、被害の歴史と韓国の人の思いにふれた「不戦の誓い」を確認しました。
現在の我が国では、憲法改正の動きや新たな安全保障体制を構築する動きが着実につくられ、戦争に荷担する歴史が繰り返されようとしています。こうした動きに賛同する若者も少なくありません。被爆・戦争体験者が減り続ける一方で、戦争を知らない世代が増え続け、戦争の悲惨さや壮絶さを理解することが少しずつ困難になりつつあります。世界に目を転じれば、テロリズムに共感する格差と貧困の狭間で生きるごく普通の若者が、罪のない子どもたちや女性、高齢者などを殺りくする事件が後を絶ちません。戦争は決してゲームなんかではない。人と人とが、時には家族をも、時には仲間をも、時には愛する人をも憎しみあい、傷つけあい、殺し合う、人類の歴史の中で最も惨たらしいものです。
広島、長崎の原爆により生涯を通して原爆被害に悩み苦しみ続ける被爆者から青年団が学んだことは、報復しないという不戦の哲学でした。報復の思想は新たな憎しみや怒り、暴力の構造を連鎖させるだけです。 ここに集まった一人ひとりが、悲惨な戦争の歴史を二度と繰り返さない決意を固くし、それぞれの地域、職場、学園等々様々な機会を通して多くの人々に伝えていくとともに、正しい歴史教育の実現を求めていきます。そして、日本国憲法の理念を尊重し、過去の歴史に学び、改めて青年は二度と銃を取らないことを固く誓い、被爆・戦後70年にあたる宣言とします。
2015年5月5日日本青年団協議会第65回定期大会