わからない質問に答えろと席を立たされた生徒のように、
萩原は途方にくれた顔でノブさんを見た。
相手の口から出てくる言葉は、掴みかけるとスッとひっこみ、
ひっこんだかと思うとまた別の場所からスッと顔を出すといったいたちごっこで、
要領がまるでつかめなかった。
散らかった話の断片を一つにまとめようと頭の中を整理している萩原に、
しかしノブさんは一向に構うことなく話し続ける。
「濃い霧の中だったから最初見た時はね、捨て犬かなんかだと思ったのよ。
でもよく見たら人じゃないの。ちょっとやだわ、人間じゃないのっ、って
あたしそのとき思わず声に出して叫んじゃったのよ。
かなり大きな声だったと思うんだけど、でもそれにびくとも反応しないのよね。
こう、頭を埋めた膝を両手でぎゅっと抱えて、子供みたいに小さくなってて。
こんな感じで」
ノブさんはヒョイっと胸元まで上げた自分の両膝を、
両手で体育座りのような形に抱えた。片手に持っていたハンカチが、
その拍子にハラリと地面に落ちた。
「びっくりしちゃったのよね、あたし」
ノブさんは足元に落ちたハンカチを手で拾い上げると、
表面についた土をヒラヒラと振り落としてから、
それをまたズボンのポケットにしまいこんだ。
「じっと蹲ったまま微動だにしないもんだからすごく不安になっちゃってね、
あんた何してるのこんなとこで凍死するわよ起きなさいよっ!って、
もっと大きな声でその耳元に向けて叫んでやったのよ。そしたらやっと、
ほんとにやっと顔を上げてね、その姿を見たらあたしもうビックリしちゃって。
ガラス細工で出来てるんじゃないかしら、この子?って思ったのよ、
余りにも繊細だったもんだから、その姿が。ほんとにびっくりしたのよ、
鼻血も出てたし」
「張り込みでもしてたんですか、ヒデはそこで?」
「え?」
ようやく会話の糸口を見つけて滑り込んできた萩原に、ノブさんは
あからさまに怪訝そうな顔を向けた。
「鼻血出しながら張り込みする刑事なんているの?」
「・・・さぁ」
「とりあえず鼻にティッシュを詰めるんじゃないかしら、そういった場合は」
「・・・はぁ」
「困っちゃうじゃないの、鼻血が止まらなかったら」
「・・・そうっすよね」
ばかじゃないのかしら、この子は?といった目つきでノブさんは、
再び混乱している萩原の顔をじっと見据えると、
「話を逸らさないでちょうだい」
プイっと横を向き暫くムッと黙り込んでから、
「なんの話だったかしら?」
と萩原の顔を横目で見やった。
「張り込みの話ですよ」
急速な疲労感を脳の裏側に感じながら萩原は言った。
「そうじゃなくてその前よ」
「木の下に蹲ってたって、ヒデが」
「そう、それで?」
「えぇ? あ、はぁ、えっと、じゃあ、張り込みしてたんじゃないんですよね。
ならいつ頃の話なんですか、それって?」
「ヒデちゃんが大学生の時よ。確か三年生だったかしらね」
「そんな前の話なんですか?」
萩原は思わず驚いた声を上げ、
「そうよ」
ノブさんは平然と答えた。
「あたしが見つけたその朝の前の晩に、アルバイトで貰ったお給料を、
家に帰る途中に通ったこの公園内で全額取られちゃったらしいのよね、
後からつけてきた数人のグループ連中に。多勢に無勢ってやつよ、
ああ思い出しただけでも腹が立つわ。とにかくね、目の前にじっと力なく
蹲ったままでいられたらこっちだってほっとけないじゃないの。
それで病院に連れて行こうとしたんだけどお金がないっていうし、あたしも
お金のなさでは天下一だったしね、それじゃ家に連れていってあげるわって
いってもお姉さんだかなんだかに心配かけたくないから帰れないっていうし、
他に行くところはないのって聞けばないって言うしでね、結局あたしの小屋に
連れていって介抱してあげたのよ。それから三日くらいいたかしらねぇ。
ちょっと元気になってきた時にあたしの作ったスープを飲ませたら、
それでまた具合が悪くなっちゃったんだけど」
祭壇の前に集まっていた仲間内の誰かが、古い演歌を唄いだした。
カラオケバーに行くと、酔ったデスクが必ず歌う、いやというほど耳に聞き慣れた
その演歌の歌詞を、酒やけした嗄れ声が少し的外れなリズムで追っていく。
「それでそのあとようやく元気になった時にね、いかれかけてたあたしの小屋を
ヒデちゃんが直してくれたのよ、とても器用に、さささ~って感じで。
感動したわ、あれには」
調子外れに聞こえてくる歌声を耳元に溜めながら、萩原は再び、
吉岡が修理している小屋のほうへと視線を戻した。立ち並ぶ小屋は、
粗末な材料を使ってこそはいるものの、しかしどれもみな丈夫そうに見えた。
ノブさんは隣で、湧き出る泉のごとく絶え間なく話し続ける。
「ヒデちゃんが修理してくれたお陰で立派になったあたしの小屋を見て、
みんなすごく羨ましがってね、そしたらもう次から次へと小屋の修理依頼が
ヒデちゃんのもとに押し寄せちゃって。でも嫌な顔一つせずに、一軒一軒、
それは丁寧に直してくれたのよ。それ以来ずっとそうしてくれてるの」
(ヒデらしい話だな・・・)
心の中で呟きながら萩原は、吉岡の顔に浮かんでいる雑じり気のない笑顔を
遠方に見つめていた。いつの間にか周りに集まってきていた数人の住人達と
和やかに話をしながら、吉岡は小屋の入り口の建付けを直している。
口に挟んでいた釘を片手に持ち替えて壁にあて、手馴れた正確な手つきで
それを反対の手に持った金槌で打ち込んでいく吉岡の姿を眺めているうちに、
(そういえばヒデは、大学で建築学を専攻していたんだっけ・・・)
と萩原の気持ちは自然と、懐かしい高校時代の風景、ひっそりと静まり返った、
西日に染まる放課後の廊下を辿り戻っていった。
(大学の進路を決めるとき、迷うことなく一本で選んだ学科だったのにな・・・)
「あたしはてっきり立派な建築家になるんだとばっかり思ってたんだけど」
心の中を見透かしたように耳に飛び込んできた言葉に、
萩原は驚いてノブさんに振り返った。
「刑事になっちゃったのよね、ヒデちゃん。びっくりしたわ」
しかしそんな言葉とは裏腹に、ノブさんは自慢の息子を見るような顔で
吉岡を眺めていた。それは、とても誇らしげな表情だった。
萩原は静かに、視線を自分の足元に移した。
祭壇から聞こえてきていた歌声がふいに止んで、あたりが一瞬静まり返った。
ふともたげて見た萩原の視線の先に、急に感極まったのか、祭壇の前で、
誰かが背中を丸めながら泣いていた。
替わりに歌いだした誰か別の歌声が、月を隠した暗い夜空に再び沁みこんでいく。
ああ 川の流れのように
ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて
「ひばりはいい言葉で歌うわよね、やっぱり・・・」
感傷深げに夜天を仰いでいたノブさんはポツリと呟いた。
その歌詞を書いたのは美空ひばり本人ではないのだが、
ええそうですね・・・、と萩原もポツリと答えた。
ああ 川の流れのように
いつまでも 青いせせらぎを 聞きながら
萩原は再び足元に目線を落として、聞こえてくる歌声にじっと耳を傾けた。
歌詞をなぞるように、心は遊歩道の向こう側へと、吉岡の声を探していく。
「いつもひょこって現れるのよね、ヒデちゃん」
しばらくしてノブさんが口を開いた。
「ほんとにそうなの。あたしは今住んでる家に引っ越した後も、仕事帰りに
毎日ここに寄っていくんだけどね、ひょっこりいたりするのよね、ヒデちゃん。
いつも。あらでもね、いつもっていったっていつもよりいつもじゃないのよ。
ヒデちゃんにだってヒデちゃんの生活があるし。なんてたって刑事だものねぇ。
でもそのひょこっていういつもは、決して途切れることはなかったのよ、
ずっと」
ノブさんは祭壇の方へと顔を向け直した。
「いつだったかある日ね、ヒデちゃんがまだ学生だった頃、
日雇いのアルバイトの話を持ってきたことがあったのよ。
ビルの建築現場での働き手が足りないから、一日でもいいから
助けてくれませんかって、ここに頼みに来たの。みんなヒデちゃんのことは
大好きだったんだけど、重労働を好きな人は誰もいなくてねぇ。
でもあたしは受けたわよ。働くのは嫌だったけど、でもいつも世話になってる
ヒデちゃんに恩返しがしたかったしね。で、次の日現場に行ってびっくりしたの。
だってヒデちゃんも日雇いの中の一人だったから。あたしてっきりヒデちゃんは
建築家の偉い人の下でアシスタントかなんかのアルバイトをしているもんだと
ばっかり思ってたのよね。もっと立派なアルバイトをしているんだと思ったわ、
ってそのときヒデちゃんに言ったら、あははって明るく屈託ない顔で笑ってね、
どれもみな大切で立派な仕事ですよね、ってあの調子でやんわりと言って。
その言葉を聞いた瞬間、なんかスコーンって心の中にたまっていた泥が、
一気にきれいに洗い落とされた感覚がしたのよ、あたし」
夜気の中に聞こえていた歌声は、いつの間にか一人、二人とその歌声が
増えていき、いつのまにか大合唱になっていた。
泣き笑いしながら同じ歌を何度も繰り返し歌っているその人たちの姿を、
萩原はじっと何か考え込むような顔で見つめていた。
「あたしそれまではずっと、楽な方楽な方へと向かう抜け道を
いつも探して生きていたから・・・」
ノブさんの静かな声が隣から聞こえてきた。
「その日ヒデちゃんと一日いっぱい働いて稼いだお金でね、
遠慮して断り続けるヒデちゃんをむりやり口説いて夕飯をご馳走したのよ。
ご馳走っていっても、駅前のしなびた立ち食いそばやの素うどんだったんだけど。
でもおいしいおいしいって、顔をくしゃくしゃにして笑いながら、
喜んで食べてくれてね。その嬉しそうな笑顔を見てたら、
ああ、あたしなんかのことをこんなにも気にとめてくれる人がいるんだって、
そう思ったら、あたしなんだかすごく泣けてきちゃって・・・」
ノブさんは急いでズボンのポケットからハンカチを取り出すと、
ビーっと勢いよく鼻をかんだ。
「その次の日からきちんと働き出すことができたの、あたし。
だいぶ経ってからその出来上がったビルを見上げた時にね、
ああこれはあたしもみんなと一緒になって建てたビルなんだって思って。
そう思った時にね、公園を出ようってはっきり決めたのよ」
ふと横に向けた萩原の目の中に、意外なほど真剣な表情をした
ノブさんの横顔が映った。
「ヒデちゃんはあたしのことを命の恩人だなんて思ってくれてるみたいだけど、
でもね、救ってもらったのはあたしの方なのよ」
遥か遠くを見つめながら、ノブさんは頷くように言った。
「だらだらと惰性で動いていたあたしのエンジンにさっと息吹を入れて、
そっと前へと押し出してくれたのがヒデちゃんだったのよね」
両手を膝の上に置き直し、ノブさんはベンチの上でシャンと背筋を伸ばした。
「ほらよく、金魚鉢の中の金魚はその鉢の大きさに見合った分しか
成長しないって言うじゃないの? ヒデちゃんはね、それまで住んでた
あたしの金魚鉢を取り替えてくれたのよ、とても大きな鉢に」
そう言ってノブさんは誇らしそうに微笑んだ。
つづく