老婆に睨まれる。その形相が怖かった。老醜。鬼となる。
ああ疲れている。
過去の桎梏がフラッシュバックする。
前へ進めない。
拒否してしまう。
排除しようとする。
わからない。
そうすけは問いつづける。過去という事実は時空のかなたにワープする。過去は記憶から歴史になり全く違う位相をつくりだす。
夜を恐れることはない。夜こそ問う。お前は何者たるや。赤い月が浮かぶ宵闇。昼と夜との交替時間。
けだるさを巣に持ち帰り問う。
わからない。
やがて眠くなる。夢の通い道をさまよい。門がひらかれるであろう。
(K4972)
退屈は空想の発生装置である
自分が本当にほしいものを思い描く時間をどれだけ毎日作っているでしょうか?
気がつくのは、本当に欲しいものが見つからないことです。
一日、五分間、目を閉じて自分が心から欲しいものを思い描く時間を毎日作ることです。
こころから消費したいものがみえてくるはずです。
こころから創造したいものがみえてくるはずです。
「自分全体」のもとめることは
とても大切だ。ところが
「頭」だけ求めることを
「頭」は押しのけて
別のものを求めるんだ。
しまいに余計なものまで求めるんだ。 加島祥造
退屈の落とし穴は欲望を肥大させるところにあります。
まずは、たっぷり飯を食べて骨を休める。
そこから求めるものを見極めましょう。
何かを捨てたら
何かを拾いなさい。
消費する快楽を知ることよりも
働くことの喜びを感じなさい。
毎日が同じに思える朝を迎えたら
今日の私は昨日の私と違う
今日の新たな発見ができる私がいる
どうか感動を与えてください
それを受け入れる私がここに居ます
手を合わせ祈りましょう。
どうしてだろうと
おもうことがある
なんまん なんおくねん
こんなに すきとおる
ひのひかりの なかに いきてきて
こんなに すきとおる
くうきを すいつづけてきて
こんなに すきとおる
みずを のみつづけてきて
わたしたちは
そして わたしたちの することは
どうして すきとおっては こないのだろうと・・・
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●わたしは透明になりきれない。だから、良かったような気がする。
「どうして すきとおっては こないのだろうと・・・」
この言葉を忘れないで悩んでいこう。
感謝と謙虚の気持ちを忘れないようにしよう。
けして、体についた塵はおちないのだから・・・
習慣はけして善とはいわれない。
たとえそれが善き行為の習慣であっても、そうである。
善き行為も、習慣となってしまえばもう徳行とは言えない。
ただ努力によって得られたものだけが徳なのである。
カント
そうすけは努力が嫌いだ。だから徳がないんだな。
習慣のみで生きる者を他人は老いた人と言う。
そうすけは競争社会に負けたから中流から下流に堕ちるのではない。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるのだ。
だがそうすけは永遠に堕ちることはないだろう。なぜなら、そうすけの心は可憐であり脆弱である。それは愚か者であるが堕ちぬくには弱すぎる。
そうすけは結局は、処女を刺殺せず、自殺せず、スポーツに道を求め、権力を担ぎ出そうとする。だが空虚な自分を殺し、内なる自分を求め、自分自身の力を信じるためには、そうすけは正しく堕ちきることが必要なのだ。
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し救い出さねばならない。
政治による救いなどは上面だけの愚にもつかないものである。
坂口安吾「堕落論」より
そうすけは友だちがいないわけではないが少ない。昔から仲間に入ろうとしない子供であった。遊びの輪の外でながめていた。
「人数が足りないんだ。そうすけもこいよ」とAが声をかける。仕方ないなという顔をして行くのだった。
そうすけは友だちが少ない。親友はいない。仲間に入れない子供であった。大将Aが声をかけてくれるから他の仲間に嫌われることはない。好かれることもない。ちょっと変わっている子と大人たちはおもっていたようだ。
だから自発的に孤立をしていた。一人でいることが好きであった。ひとりでいると淋しかった。
結果的には社会的関係において貧しい生活をしていた。
友だちが少ないとは、友だちに働きかけが少ないということだ。
鐘は突かねば響かない。
神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求である。
神話の知は、言葉により、既存の限られた具象的イメージをさまざまに組み合すことで隠喩的に宇宙秩序をとらえ、表現したものである。そしてこのようなものとしての古代神話が永い歴史のへだたりを超えて現代の私たちに訴えかける力があるのも、私たち人間には現実の生活のなかで見えにくく感じにくくなったものへの、宇宙秩序への郷愁があるからであろう。
中村雄二郎
闇夜の国から一人で舟をだすんだぁ~。月はどっちにでている?