はなせばわかる。
放せば、おちてゆく。
墓穴を掘った。
ばかものは、思いや考えを伝えることがヘタである。言葉が足りない。
確認をとると、枝葉末節を繰り返す。
よくわからないので、要点を復唱すると、
「だから、そういってるでしょう」とイラついていた。
ばかものは、馬鹿にする。
その馬鹿は馬鹿をよそっているつもりであるが、ばかものであった。
右を向いても左を見てもばかものばかりの世の中だ。
それでも地球は回っているのである。
まずはめでたし。
バスは家族全員を乗せて、ひたすら走っていました。その中に小さなそうすけはいたのです。
ためらい。いてもたってもいられない。胸がしめつけられる。
気がつくとバス停にいました。バスは遠く彼方へ行ってしまいました。
だれかおねがいです。やさしいことばをかけてください。
バスはもどってくる、と。
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倦怠。
人間にとって、完全な休息のうちにあり、情念もなく、仕事もなく、気ばらしもなく、集中することもしないでいるほど堪えがたいことはない。
すると、自己の虚無、孤独、不足、従属、無力、空虚が感じられてくる。
たちまちにして、彼の魂の奥底から、倦怠、暗黒、悲哀、傷心、憤懣、絶望がわき出るだろう。
凡骨の、そうすけは、足を踏まれてみなければ、痛さがわからない。
痛いと思った時は、足を踏んだ人を恨めしく思う。踏み返したいと思う。
「すみません」と言われる。痛さがうすらぐ。
なぜ踏まれたのか、どうすれば踏まれないのかとは考えない。
痛みが無くなるころ再び踏まれるのだ。すこしも身にしみていない。
仕事前にランニングをしているのである。
肉体的疲労がたまってくる。
仕事で休憩していると嘯いています。
正直に言うと走ってしごとをすることはきついです。
でもこれがいいのです。
疲労こそが生きる証なのです。
1月10日(日)快晴。8℃。
10:40am。風はない。自宅より走り始める。
坂道を選んでゆっくりとゆく。一ツギ公園からJR線沿いに神明○公園。この坂を二周してからしS神社、S沼、N神社を巡る。
なぜ走っているのか?街の移り変わりを見ながら考える。答えはでない。だから走っているのだ。
42分。4km。うっすらと汗をかく。これでいいのだ。
走るとは現実への逃避である。
現実からの逃避よりリアルな身体感覚が得られる。
1月19日(火)快晴。11℃。
ジョギングを60分した。陸橋からU沼調整池を3周してF山公園経由で陸橋ゴール。
久しぶりに走る。全く脚が前に出ない。7分/KM。風景を見ながら踏んでいきました。
枯れ枝が空に刺さっている。土手が枯れていた。冬ですな。でも汗が流れてくる。
20分もすると気持ちが落ち着いてきました。太陽と青空。鳥たち。流れる水路。循環なのだ。すべては廻る。なんだかんだといわせない。走ればわかる。なんだかんだといえない。走ればわかる。
尿意を覚えて家路に向かう。
坂道を昇る。
蝦蟇が道路をゆっくり歩いていた。
若者の自転車が猛スピードで疾走する。
車がタイヤを鳴らしながら左折していった。
桜がむにゅっと咲く。
地球の自転がほんのすこし速くなった。
観ず嫌いだった。公開当時に、男兄弟がパリからテキサスに親を探しに行く映画と思い込んでいた。
家族とは何だろう。
親子とは何だろう。
夫婦とは何だろう。
旅とは何だろう。
探すとは何だろう。
なぜ男は息子をおいていくのだろう。