そうすけ漫録

そうすけの一日の型録です。

福寿

2007年11月25日 | は行

多くの仲間がいて

自分の役割をもち

アクティブに生きることが

福寿の秘訣である。

と近藤 裕は云う。

この言葉は、

「わたしはひとりで生きています」という人には心に染みるでしょう。

友人がおらず

自分の役割がわからず

ネガティブに考えて

遠い世界に救いを求め

幻想にしがみつき

淋しいと知っている。

さて、あなたは福寿を求めますか?

ならば・・・

「人が生きるということは苦しみの連続なのだ」

と覚悟するところから出直す必要があるのではないでしょうか。

五木 寛之

求める者は苦しみの連続なのです。
でも苦を引き受けると、淋しくはありません。

さびしさを苦しみに
苦しさを楽しみに

この変換装置を発見するのです。
求めよ、さらば救われん!

楽しいと観じたとき
福寿をいただいたと
感謝できることでしょう。

合掌。

 

 

 

 


平々凡々

2007年10月23日 | は行

人間は、一個の正直な人間となって、信用のできるものとなれば、それでけっこうだ。
真っ黒になって、黙々として一日働き、時節がくれば、“さよなら”で消えていくこのような人を、偉い人と自分はいいたい。
すなわち、平々凡々の一市民である。『このほか、なにかをのぞまんや』ではないか。

鈴木大拙

そうすけは、平凡な人間になりたい。
汗を流し、真っ黒になって、黙々として働く。

晴れた空に。朝陽に。風に。土に。水に。
祈りをささげよう。

夕日に。満ちかける月に。星に。
感謝をささげよう。

「このほか、なにをかのぞまんや」
とつぶやいて眠りにおちる。

平凡な一日を暮らしたい。


鼻歌

2007年10月21日 | は行

秋の日はつるべ落とし。夜になるのが早くなりましたね。

仕事が終わって、家路まで徒歩30分あるのです。

鼻歌をしながら帰りました。

見上げればきれいなお月さんが笑っています。

♪月がとっても青いから回り道して帰ろう~

♪月の砂漠を~

♪月がでたでた 月が出た アソレソレ

♪みあげてごらんよるのほしを

すこし涙が出ました。


引越しの効用

2007年10月18日 | は行

引越しをしました。手違いで、しばらく開通ができなかったので携帯で投稿ををしていたのですが、引越し疲れからかエンジンが低調になってしまいました。

このような時は読書に限ります。

引越しで積読本を掻き回しました。読みたい本が出てくるは出てくるはの状態です。図書館に行く必要がないですね。
ふるきを訪ね、あたらしきを知るですな。ちょっと違うか?

読んで読んで読んで、座右の書を決定しましょう。


分別はしない NO1371

2007年06月23日 | は行

独り住まいの夜の寂しさを、愚かな映像を観て、アルコールを過剰にとって麻痺させ、眠りに堕ちるのだ。朝まで眠れれれば良いのだが、未明に目が覚めてしまう。漠然とした不安と恐怖を誤魔化すためにラジオをつけ、有り難い本を読むのだ。

ふと、魔がさして、天井を眺めていると、なんともいえず空しいのである。そのときに、そうすけは今年四十六であるが、今まで生きてきたこととか、死とか思うのである。

今まで生きてきたこと。<過去>の呵責、後悔、罪に苛まれる。
死ぬということ。未だに来ないが必ず来る終末に恐怖をおぼえる。
すると、<いま、ここ、じぶん>が揺らぎはじめる。どこともなく不安が湧いてくる。

 ♪ アカシヤの雨にうたれて
   このまま死んでしまいたい

  と、西田佐知子は唄った。

死んだら、どうなるか?などと考えてしまう。

ある人は、「死んだら仏の大きな計らいによって、宇宙にかえる」と考える。

ある人は、「死んだら、ゴミになる」と考える。

 ♪ 夜が明ける 日がのぼる
    朝の光の その中で

あなたから呼びかけられている声に耳をかたむけられるほど、今日を切実に生きられたら・・・・・・

 ♪ 冷たくなった わたしを見つけて
     あの人は涙を流して くれるでしょうか

永遠のいのちが現れるのでしょうか。

死んだら、どうなるか、という問題よりも、いのちを燃やしている者が何を、どう感じて生きねばならないのか、という方が大切なのではないでしょうか。

後ろを振り向いても仕方がない。
先を見たら限がない。
分を知ると、一歩でも大変だ。
右足半歩。左足半歩。最初はゆるりといこう。
うまく速く回れば、宙に浮く。
そうなれば、いいんだなぁ。

まずは、靴紐を締めなおして、右足を上げよ。

   

 

   


早え話が

2007年03月26日 | は行

 本日の杖ことば


 俺とお前は違う人間に決まってるじゃねぇか。
 早え話が、お前がイモ食ったって、俺のケツから屁が出るか


         車 寅次郎


 親子なんだから、同僚なんだから、親友なんだから、
 わかるはずだ。やってくれるはずだ。
 人とは自分勝手なものだ。
 そして、拒絶されると恨む。


 ここより、礼節と謙虚を学ぶ。
 親しき仲にも礼儀あり。他者は自分と違うと定めよう。


八月の濡れた砂

2006年06月11日 | は行
はじめて「八月の濡れた砂」を観たのは18か19の時だった。
映画館は、たぶん文芸地下だっただろう。
衝撃だったな。血が沸き立った。興奮していた。
あの頃は、それがなんだか、わからなかった。


健一郎(村野武範)が退学した学校に現れる。警戒する教師。サッカボールを蹴る健一郎。
ボールがガラスを破る。

浜辺をバイクで疾走する清(広瀬昌助)が見たものは不良学生に車から放り出された早苗の姿だった。全裸になった早苗は海へ。見つめる清。
「何人にやられたんだ」
早苗はあわててやぶれた服を着ようとするがなかなか背のファスナーがあがらない。
「送っていくよ。どこだ」
二人の乗ったバイクが夜明けの街を走る。

テレサ野田が演じる早苗は、出逢いのシーンは無言である。だが無言であるが故に美しい。
そして、あのけだるく、やるせない、ひとつの青春の真実であろうラストシーンに向って
1971、夏の物語ははじまるのです。

あれから35年。色あせてないなぁ。
ラストシーンに、主題歌「八月の濡れた砂」がかぶりエンドロールへ。

あたしの海を真っ赤に染めて
夕日が血潮をながしているの
あの夏の光と影は
どこへいってしまったの
悲しみさえも焼き尽くされた
あたしの夏は明日もつづく

明日、明後日、35年後2006の夏。健一郎と清はどうしているだろうか。