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Kennyの城址歩き、安土城: そのー3

2011-03-08 18:49:37 | 安土城址

  安土城、そうだったのかー!
   =長谷川博美先生と歩く山城=
   ー安土城を見学して:日記そのー3、最終回

           (この日記の掲載期間:3月18日3月24日

安土城に関する書物を何冊も読んだわけではありませんが、教科書
にも今まで読んだ本屋さんで簡単に手に入る書籍にも多分書かれて
いないのではと思ってしまう長谷川先生のお話に圧倒され、こんな
日記を書くことになりました。今の時期、本来ならスキー場や雪の風景
のことを書いているところですが、その予定を変えて日記そのー3
を書いています。
    

         安土山(あづちやま:標高189m)

安土城は信長以前から有った
「信長公記」(しんちょうこうき)には元亀元年5月12日に「安土城に中川
八朗飢右衛門楯籠る」とあるので中川重政が安土城に確実に在城した
ことが確認される、と当日先生から頂いたレジュメにあります。その城は
安土城の近代の城「織豊系城郭」とは違い中世城郭であったと推定され
るが、それを知る手がかりは今のところないそうです。

安土山には元々お城が有ったのだ!
そうだったんかー、てっきり信長がここを切り開いて造ろうと始めて城を
築いた山とばかり思っていました。

 信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)は、近世の記録資料。
 安土桃山時代の戦国大名である織田信長の一代記で、著者は信長旧臣
 の太田牛一。 江戸時代初期に原本が成立 (ウキペデアより引用)


 
  ウインゲの木版画 (レジ
ュメから)         その版画にある現場

この場所、本当に一致します (三の丸付近)
ウインゲの木版画
という物が有るのだ
そうです。その版画にある建物
の場所に連れて行って戴きました。三の丸の近くです。バチカンに献上
された屏風絵の部分模写と考えられているが、この模写の描写は安土城
のどの部分なのか研究者の見解がないそうです。
実際城跡を詳細に観察
している人間には一目見ただけでどの部分の描写なのか理解出来ると
思う、として先生はこの場所を特定されておられます。

実際
に観て版画に収められた訳だからこの建物は実在したのものです。
現場は石垣しか残っていませんが、版画にある石垣と現場を見比べると、
櫓台が有った右の石垣の石が版画も現場も右の石の方が大きいのが
分かります。
また中央部の入口の石段も完全に一致します。まさに当時
の安土城の
建物の前に立っているようで感動ものでした。

      
           礎石に残る焼きついた柱の跡
        
   (過去の見学会で解説を受けた時の写真)

カステラ食って・・・・
安土城築城にあたり信長は高度な測量器具を、それは宣教師から入手
したのであろうか? 信長は宣教師から贈られたカステラを食っていた
んだから、コンパスなど高度な器具など十分手に入っただろうね、との
先生のお話しに納得です。

城の見学料徴収、天正時代に??
「信長は安土城の見学料も徴収する経済的にシビアな側面も伺わせる。
これはもはや安土城が隠れて籠城する山岳の中世城郭ではなく信長が
もたらした天正の治世の到来を高々と宣言する宣伝塔と言えよう」とは
先生のレジュメそのままを引用させていただきました。ちなみに、信長の
血液型がA型やそうで、結構金銭的には細かかったとか・・・・。
 
       
          天主の火災熱で入った石垣のヒビ
        
   (同、過去の見学会で解説を受けた)

今回の安土城現地見学会に参加して
長谷川博美先生との出合い、
長谷川先生と安土城址を歩くと銘を打って見学日記を三回書きました。
先生にお会いしたのは今回で3回目です。昨年の秋の事、所属の「淡
海の城友の会」からこんな見学会がるよと連絡を戴きその企画に参加
して初めて先生にお会いする機会に恵まれました。
    
   
  先生ご自身が発見された多賀にある城址を先生の案内で見学する参加者

先生は正に現場主義 (でいいのかな?Kennyの印象)
回数を重ねる毎に先生の研究(現地調査他)成果からのお話しのすごさ
に圧倒され、また溜まっていました疑問や知りたいことが、一つひとつ
解決していくのがとっても嬉しいことです。 調査、研究はまさに修行の
苦難(新しい城址発見には道なき山道を)
を伴うものだと思います。
そんなご努力、執念からのお話しをこんなに楽をして聞かさせて戴き、
またこのように楽をして体験や日記にさせて頂いて申し訳けない気が致
します。しっかりと記録に留めてまた機会毎に私の友人知人に先生の
お話として伝えて行きたいと思います。 

改めて長谷川博美先生に深く感謝致します。

また今回の企画に参加させていただき主催者、事務局の皆様に
厚くお礼申し上げます。

*茲愉有人さんが
    
関連情報を寄せてくださいました。 コメント欄更に詳しい史実が       
        あります。
合わせてご一読いただければ幸いです。(3月21日)
           

(当日記の掲載に関して、主催者、講師先生のご了解を頂いております)

   この3回に分けて書いた安土城址の
日記を最後まで
   ご覧ください
ましてありがとうございました。

********

情報です: 私は主催者とは全く縁のない一般参加者ですが、日記
        に書きましたように今までに経験のない先生のユニーク
        なお話しと企画なのでご参考までにお知らせします。

        以後の城址歩きや講演の情報は下記のHPに案内があります

       長谷川博美先生のHP: 長谷川博美郭日記

                 http://h-hasegawa.jimdo.com/

       ウッディパル余呉のHP

          http://woodypal.jp/

 

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4 コメント

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関連事項として (茲愉有人)
2011-03-18 15:06:07
書かせていただきますね。

おっしゃるように、『信長公記』巻三、元亀元年5月12日に、信長の指示として記されていますね。
「12日に永原まで御出で。永原に、佐久間右衛門置かれ、長光寺に、柴田修理亮在城。安土城に、中川八郎右衛門楯籠る。此の如く塞々に御人数残しをかせられ、」

先日、宇治市の図書館に蔵書があるのを見つけ借り出して『織田信長と安土城』(秋田裕毅・創元社)を読み始めているところです。

その中に、安土築城開始は元亀元年とされる秋田氏の仮説が述べられています(p48-49)。そして、信長が天正四年正月に、公式に安土城着工宣言を出したのは、元亀元年四月二十七日に起こった浅井長政の「手の反覆(かえり)」のためであるとされています。

この仮説の理由として次の2点が説明されています。
1) 元亀元年(1570)2月26日から3月4日まで、信長は常楽寺に逗留し、3月3日には近江国中の相撲取りを召し寄せて盛大に相撲を行っている。
  この相撲の実施は、「安土に居城を築くことを人々に知らせるためである」と秋田氏はいう。この時の相撲以外は、「すべて天正6年以後に、安土城や御所、二条城という格式ある場所で行っている」ために、築城開始を元亀元年と推測する。
2)『イエズス会日本年報』1582年2月15日(天正10年1月23日)付、長崎発、
パードレ・ガスパル・クエリヨよりイエズス会総会長に贈りたるもの。
その一文:「信長は、都及び天下の主であるけれども、通常は近江国安土山の市に居住している。この市は都より14レグワあり、信長が都を征服した後、これを選んで居住地とし、同所より日本国を治むること12,3年である。」
 この一文は、「安土より日本王国を治めること6,7年のはずである」ため、「この数字を、そのまま遡らせると、安土築城開始(具体的には、城下町地域の整地、安土山における郭の造成)は、元亀元年となり、先の推測と一致する」とされる。

『信長公記』ですが、手許の本によると、著者の太田牛一が信長の祐筆であったと幾つかの本に記されている点は、桑田忠親氏や石山善人氏の考証によるとその根拠はなく、信長の旧臣ではあったようです。そして、勤務の合間につづった日記をもとにして、慶長15年(1610)、84歳のときにこの信長の一代記を完成したとのことです。

伝本はいろいろあるようですが、「牛一の自筆本として伝わっているのは、前田家所蔵の『永禄十一年記』一巻だけである」とか。

城の見物に金を出させたというのは、『信長公記』巻十五(天正十年壬午)の冒頭、「御出仕の事」に記されていますね。

大変な群集のために高く積み上げた石垣が崩れ落ちたのもこのときのことです。

「一番、御先、御一門の御衆なり。二番、他国衆。三番、在安土衆。
今度は、大名・小名によらず、御礼銭百文づつ、自身持参候へと、堀久太郎・長谷川竹両人を以て、御触れなり」と記されており、

百々の橋→惣見寺毘沙門堂舞台→おもて御門→三の御門→天主閣の下の白州という見物ルートだったようです。
その後に、江雲寺御殿、御幸の間の内部についての描写が続きます。そして、

「御厩の口に立たせられ、十疋宛て、御礼銭、忝くも、信長直に御手にとらせられ、御後へ投げさせられ、」と記されています。
信長がじかにお祝い銭を受け取ったということのようです。
どんな意図を込めて自ら受け取ったのでしょうか・・・・信長独特のユーモアでしょうか?

参照資料
『新訂 信長公記』(太田牛一  桑田忠親校注・ 新人物往来社)
『原本現代訳 信長公記』(榊山潤訳・ニュートンプレス)
返信する
いろんな文献 (Kenny)
2011-03-18 20:01:51
私のちょっとかじった事でもそれだけ裏付けの
文献があるんですね。驚きというかなかなかそこまで考えが及びません。今日は滋賀南部も雪化粧の朝。7時から車を飛ばし帰ってきたのが9時過ぎ。必死でシャッターを切っていたのか、足腰が今痛くなっております。やっているスポーツとは使う筋肉が違うのかと。所用を済ませ今、夜の7時。興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。
返信する
ちょっと興味をもって (茲愉有人)
2011-03-18 21:24:44
ウィンゲという名前を以前どこかで読んだ記憶があり、先ほど、ネットで検索してみました。

ウインゲの木版画に関連して、こんなサイトがありますね。

「日・伊歴史遺産調査協力事業
~安土城屏風絵探索プロジェクト~」滋賀県安土町

報告書の中に、版画図が掲載されています。pdfファイルのダウンロード可能です。その出典が明記されています。

http://www.clair.or.jp/j/sien/pdf/H18_model/azuchi.pdf

ご存知かもしれませんが、ヒットしましたので、ご参考まで。

他にも、こんなブログ記事がありますね。

http://castles.noblog.net/blog/f/10831509.html


http://yamashironokami.at.webry.info/201001/article_13.html


返信する
骨董収集家なんですか!! (Kenny)
2011-03-18 23:17:03
いや、ウインゲって宣教師? ルイス・フロイスなら聞いたことあるが・・・。とネットでも調べましたが、?? 先生も忙しいからこんなことでメールも出来ないし、今度お会い明日した時にと。今日頂いた情報で「骨董収集家フィリップス・ファン・ウィンゲが書いた書簡によって・・・」という文言でまた一つ知らないことが解消しました。どんどん検索してヒット出来るよう身に付けます。でもそれまでにもっと集中しないといけませんね。明日は星ケ崎城址(竜王町)を県の学芸員さんの案内で見学です。
返信する

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