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郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの城址歩き:安土城址、そのー02

2011-03-05 16:37:49 | 安土城址

 安土城址見学で学んだ新しい事実

      =長谷川博美先生と歩く山城=
              ー安土城址見学日記その2ー

         
   (日記その2の掲載期間:3月11日本日17日

私のブログをいつも訪ねてくださっています茲愉有人さんからこの
テーマー
に関する情報を寄せてくださいました。当ブログのコメント
欄も合わせてご一読いただければ幸いです。茲愉有人さんありが
とうございます。


先週の日記で、まさに目からウロコと書かせていただきましたが、今週も
もう一度この話題を取上げて新しく知った事実を書いてみたいと思います。

長谷川先生のお話しを振り返ります:

 
          安土城天主イメージ図(安土町、観光パンフレットより)

     
      大手道が90度左に折れるこの場所から真上に天主
      が上にある
イメージ図のように見えたのでしょうね

前回の日記で触れましたが長谷川先生は次のようにご指摘になります。
それは大手道が90度左に折れるこの場所に展望位置がくるように定礎
を置き定礎、天主中心部さらに真北が一直線上に並ぶように城が構築さ
れたとのことです。

つまりこの天主は東西南北に向いていることになります。これは「信長
の棺」の著者、加藤廣先生のご見解とも完全に一致します(Kennyの見解)
(上に掲載の
イメージ図は城が立体的に見えるよう右方向より描かれています

  
      お城の表広場から見える石垣:これは当時のものです

今日は
石垣や石段のお話です:
織豊系城郭(織田・豊臣)と言ってこの時代からお城に本格的に石垣や
屋根に瓦を使い、特に権威の象徴を意識した城へと、つまり近世の城
へと変遷して行きます。

     
       これは当時のままの石垣だよと説明される先生

この石垣の石は本物?
本物の石?との質問には笑いが起こります。勿論石は本物の石ですが、
その意味は修復したお城址の石垣は当時の物か復元のために新しく
調達して積みあげた石垣かがとっても気になります。安土城址でも先生
に盛んに ”これは当時の石垣ですか?”と質問が飛びます。安土城は
廃城の運命にありましたので近くの八幡山城や彦根城築城時、抜き石と
言って持ち去られています。 でもまだまだかなり当時の物が残っていま
す。

   
               現地見学会参加者と長谷川先生
    
この見学会は余呉町のケ岳城郭フォーラム実行委員会の主催です。
           参加者の殆んどの方々は余呉町の皆様です。背後に送迎用のウッデー
     パル余呉(事務局)のバスが見えます。 

伊香郡(現長浜市)からも多くの普請人足が:
伊香郡(旧名でお許しください)は私のふるさとです。先生のお話では
「武功夜話」に記述があり、その旧伊香郡余呉町の中河内、今市、川並、
茶屋、小原、一、柳ケ瀬、国安、池原、天神、中郷、丹生他から
360人の
人足がなんと安土城本丸の普請現場に投入されているようだとのことです。
              
    
  
        秀吉邸であったと言われている敷地の石垣
 
   写真の右上は櫓台です。秀吉邸とは少し方向をずらして櫓台(守備隊)が
    設計されています。これは侵入してくる敵を有効的に狙える方向に向けて
    あるとの事です。 この石垣も当時のまま残っています。

今回の企画の参加者の殆んどがその余呉町の皆様です。普請人足には
その他にも木ノ本、西浅井、海津などからの名前も上がっているそうです。

      
       天主への最後の階段に越前笏谷石

越前笏谷石(しゃくだにいし):
この城に笏谷石も使われていたとは聞いていましたが、今回その
場所がわかりました。そこは天主に上がる最後の石段にありました。
兎に角当時は全国から石垣職人が集めれて短期に仕上げる天下普請
です。滋賀では他に穴太積み職人も動員されており今もしかりと
その石垣が残っています。

  
       越前笏谷石使用の石段拡大写真
       

石段には石仏や墓石も:
これはもう良く知られたことです。大手道には石仏が、黒金門手前の石段
には墓石を見ることが出来ます。その石仏には観光客がお賽銭を置いて
います。これには流石の信長さんはどう思っておられるか? ただ二説

あり、短期工事で石材が足らずかき集めた(石仏も資源の再利用説)。
または神仏不信仰の信長の指示によるものとも・・・。(Kennyの見解)

              
                          石段に多く見る石仏

 (当日記の掲載に関して、主催者、講師先生のご了解を頂いております)


日記の余白がなくなってしまいました:
安土城目からウロコの第一回目の日記、そしてこの二回目の日記も
先生のお話しを私なり
の言葉で記載しましたが大きな間違いがなけ
ればいいのですが・・・。


まだもう少し記録しておきたい面白い史実を長谷川先生から教わり
ました。出来れば引き続き次週に後一回、へーそうなんやーという
お話しを日記にまとめたいと思います。
   


   今日もご覧くださいましてありがとうございました。

この見学会:
師:  長谷川博美先生 滋賀民俗学会理事 
             近江中世城郭調査委員会会長

             他、各研究会の会長として研究と指導
             HP:
長谷川博美城郭日記
                 
http://h-hasegawa.jimdo.com/


主催者:  賎ケ岳フォーラム実行委員会                   

事務局: ウッデーパル余呉  
             HP: ウッデーパル余呉  
               http://woodypal.jp/

          この施設は古戦場、賤ケ岳や近年ではわかさぎ
     釣りでも有名な鏡湖、余呉湖にも近い四季を通じ
         て楽しめるルゾート地です。

  

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6 コメント

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ちょっと調べてみました (茲愉有人)
2011-03-12 00:24:31
東日本の巨大地震被害の連綿たるニュース、驚愕するばかりです。
痛ましい限りです。

ところで、先般の続きですが、ちょっと調べてみました。
最初のイメージ図とも関係すると思いますので、こちらにコメントをアップします。

やはり、「信長の館」にある天主の復元は内藤昌氏の関係されたものでした。

「近年になり、「天主指図」が発見され、愛知産業大学長内藤昌氏の説に基づき、内部の狩野永徳が描いたといわれる金碧障壁画とともに、原寸大に復元されました。」

http://www.zc.ztv.ne.jp/bungei/nobu//tenji/index.html

安土町城郭資料館にある復元模型も多分、ネットでその画像を見るかぎりでは、内藤昌氏の復元案のようです。ネットでは、明記がされていませんが・・・・
http://ameblo.jp/kazz0517/entry-10458107504.html

http://www.reki-c.com/shiseki_nobu022.html


一方、

伊勢・安土桃山文化村には、
宮上茂隆安土城天守復元案を元に、ほぼ忠実に再現した安土城があるようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E6%9D%91

石垣に石仏などを石材として転用したのは、大和郡山の城址にもその例がありますね。

http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/kinki/c-1-3-6-13-siro-KOORIYAMA.html

返信する
ネット時代、真剣に探せば・・・ (Kenny)
2011-03-13 07:21:21
ありがとうございます。なんと城の構造図なんかも掲載されているんですね。内藤昌先生、この日記を書くことで知り合わせていろんな事を学びました。勝手ながらせっかくですのでブログ冒頭に頂いたアドバイスを閲覧くださった方にもと思い追記いたしました。今もTVで悲惨な状況がまさに連綿と・・・。
返信する
関連事項として (茲愉有人)
2011-03-14 11:58:47
手許の本を読んでいて、関連事項がありましたので、ついでにご紹介します。

『NHK 歴史発見 10』(角川書店)
この本に、「織田信長 神になろうとした男」という章があります。
この章を読んでいて、こんな内容のことを見出しました。要約します。

信長は、入京の翌年、永禄12年(1569)に、将軍足利義昭のために、70日ほどで居館・二条城を造営した。これは、13代将軍義輝の御所跡に築かれたとのことで、現在の京都御所の西側、勘解由(かげゆ)小路(下立売通)室町のあたりとか。
昭和49年に、京都の地下鉄工事現場から、この二条城の遺構が発見された。
その際、「その石垣や建物の材料として、無数の石仏や石地蔵が、断ち割られて使われていたことが判明した」とのことで、「京都市中の石仏や地蔵を集め、それらを断ち割ってつかったという。こうした信長の行動から、信長はみずから逆らうものに対して残虐の限りを尽くし、神仏さえも恐れないといわれるようになった。」   P47,P80

安土城築城以前に、既に同様のことを実行していたということですね。

また、このことは、『考証 織田信長事典』(西ケ谷恭弘著・東京堂出版)にも、簡略に説明が載っていました。(このこと、忘れていました。)
その続きの解説が興味深いので、併せて引用しますね。
(この引用部分はどこかで読んだ記憶があったのですが、前回は出典を思い出せませんでした。今日ふと上記本の関連で思いだして再確認したのです。)

「信長は、石仏・供養塔に込められた霊力を利用したのである。また仏や神そして土地の霊力をもって、城の塁壁を守らせようとしたのである。確かに城を攻める将兵は、石仏・供養塔が石垣中にあることで、攻撃することを恐れ、怯んでしまう。今日、安土城の石垣の積み直しが実施中であるが、夥しい石仏・供養塔である五輪塔石・宝篋印塔・板碑などが混入されていることが明らかになっている。」(P193)

信長本人は神仏を信じていなかったとしても、神仏を信じる大半の将兵の信仰心や価値観の心理的側面をうまく逆用したと解釈できますね。ある種の心理策略。味方の将兵には、城を守る霊力利用、敵の将兵には、信仰の対象となるものに弓矢を向けて攻め寄せることへの心理的抵抗を抑止力として利用する。結果的に石仏等の他人が霊力とみなすものを利用する。
返信する
そうだったんや!! (Kenny)
2011-03-15 08:02:15
「確かに城を攻める将兵は、石仏・供養塔が
石垣中にあることで、攻撃することを恐れ、
怯んでしまう。信長は、石仏・供養塔に込め
られた霊力を利用した」全く新しい、信長なら
そこまで気走りするなー、と納得のお話しです。

長谷川先生とも見学で歩いているとき、これは
信長の意図ですね、いくらなんでも石垣職人は
そんな石材は気持ち悪くて使えないですよね、
とお聞きしたら先生もその節を取られて(意図)
いました。その場ではそれだけの会話しかでき
ませんでしたが、3月27日に鎌刃城址見学会
でお会いしますのでお話しする時間が先生に
あれば出してみます。ありがとうござました。
返信する
Unknown (ポエム)
2011-03-16 15:24:36
先日はギターでの食事会で色々お話できて嬉しく思います。
素敵なブログを又改めて遡って拝見しました。
見慣れた景色の写真もゆっくり拝見して、色々な歴史を知る事ができました。

同じ趣味を楽しんで、又そこから繋がり広まっていく新たな分野に嬉しい思いで一杯です。

「詩の雫」にもコメントを有難うございます。Reコメントを入れましたので又みてくださいね。
これからもよろしくお願いいたします。
返信する
ありがとうございます (Kenny)
2011-03-17 07:13:51
コメントありがとうございます、ポエムさん。
趣味や兎に角興味を持って毎日を過ごしておら
れる方々はやはり違います。私も日々、時間を
大事にして楽しく生きていきたく思います。ブ
ログはその記録。これをやることにより、見学会
でも真剣に聞きます。辞書を引く、パソコンの
機能追及などあらゆる面で頭を使います。その
素晴らしい、頼りになる相手です。楽しんで
日記を書いております。ポエムさんお綺麗なオ
リジナルのブログ画面など、参考になりましし
た。同じGoo社ですね、私もいづれ改良します。
返信する

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