信長の琵琶湖戦略と大船
=大船から安土城天主そして=
県主催の歴史講座を受講して
(この日記の掲載: 9月7日~9月13日)
またまたこれは一体なんですんや、このタイトルは?
これは滋賀県が主催されている近江を舞台にした歴史、文化全般
にわたる連続講座(多岐にわたり頻繁に開催して下さいます)のレ
ジュメのタイトル、当日の講座の内容です。
信長が建造した大船 イメージ復元模型
安土城考古、長浜城歴史両博物館編、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用
今日は信長が神になろうとしたお話です
講師先生のお話を私なりの理解で短くまとめると、戦国時代の、そし
て信長のお話です。当時は周囲の大名と同盟を結んだり裏切りを繰
り返して領土を拡大していく時代です。その戦いに勝利して信長は室
町幕府を倒し強力な中央政権(織田政権)を確立。さらに右近衛大将
(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任し勢
力を伸ばしていきます。おおよそ天下を牛耳って更にその上の権威を
求める信長、しかし乗り越えられない権威、それは天皇。(一部ウキペデア
より抜粋引用)
それも天皇と同格以上でないとお気にめさない
それをも乗り越える権威は天皇と同格以上の神になることだと当時の
宗教思想を集大成し突っ走ります。それは東国の軍事的脅威(武田氏)
がほぼ払拭された段階から信長は権威の誇示に傾注したことを意味
します。
同書、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用
その権威の誇示、どうやって・・・、
琵琶湖に大船を浮かべます。そしてその船を突如解体して安土城
の築城へと進んで行きます。その城は石垣造りの元祖です。そして
天主には障壁画を。船(元々目的は軍艦です)、城(同、要塞です)、
天主は神殿?(元々はてんしゅは天守であり城を守る為の司令塔
です)、信長の造るもの、やることはどうもあやしいぞー??
同上引用 浮かぶまさに箱船の大船
怪しい?
大船、元亀4年(1573)に岡部又衛門に命じて巨大船の建造を命
じます。ところがその船は45日で完成させています。それも箱型で
ありしかも櫓らしいが大屋根がありと見るからに船としては不安定な
代物、水に浮く建物です。ところがこの大船は安土城完成の前に
解体してしまいます。同じく岡部又衛門に命じて建てた安土城、あの
金ピカでしかも城内は外から丸見えで且つ直線の大手道を無防備
にも何か所かの枡形虎口を隔て堂々と築きます。城外からはやたら
石垣(必ずしも石垣が土塁比、防衛に優れてはいない)が目立ちます。
天皇を迎える本丸(清涼殿と相似形)は天主より一段下にあります。
天皇を迎える本丸が天主の一段下 (講座でのスクリーン資料)
参考:安土城の大手道、扇形の石垣に関する日記(そのページ)
権威の誇示が目的で戦術的評価はゼロ
建造の大船は港湾設備がなければ機能せず、せいぜい定点間の物
資、兵を運ぶ程度。安土城は上述の通りで無防備。安土城がその後
の城郭の先駆となり以降は石垣が城のシンボルではあるが、石垣で
はなくて軍事目的の強固な土塁の城の例はいくつでも存在する。
(参考)
難攻な土塁の例(そのページ玄蕃尾城)この城には石垣はない
玄蕃尾城の土塁
安土城
直線の大手道 枡形虎口 石垣
(これら小サイズの写真はクリックで拡大します。以下同じ)
小谷城にも明らかに権威を誇示する石垣が
天皇を迎える前に本丸部分をを有料で民に見学させた(同スクリーンから)
ならば信長はこれら評価ゼロをなんの目的にしたの?
大船は信長の力を視覚的に誇示し、これを見た者を承状させるため。
安土城は大船を上回る視覚的装置でありこれにより大船は必要なく
なった(安土城と大船の二つはいらない)。石垣はその他の金箔瓦
や絢爛豪華な装飾と同様権力の誇示以外の何物でもないとわけです。
金箔瓦 障壁画
信長の大船がなんと大きいことか (同、スクリーン資料から)
信長は神になろうとした、なぜ?
天皇は農耕神、すなわち人間が生きていくために重要な要素の神です。
そこで信長は農耕を可能にする水、太陽を命の元として神威の身に纏う
天皇と同格以上の神になる必要があったのです。
当時、安土城の下は琵琶湖(左)、と現在の田園風景
(同、スクリーン資料から)
信長と信玄:秋季特別展
信長の統治戦略として自己神格化、その流れは大船の建造ー安土
城築城ー天皇行幸で完成する。そのエポック毎に信長と武田氏の抗
争があったと大沼氏は語られます。秋の当博物館での特別展でこの
辺を紹介されます
お断り:今日の日記は、
今日の講師は大沼芳幸氏(安土考古博物館副館長)です。織田信長
は自身の権威誇示の為に「城に石垣」を、同誇示に「二つは要らない」、
自らが「神になる」ことに注力したのでは? と私なりに講師先生のお話
を理解して日記にしました。
塩津浜歴史研究会編 上述の両博物館編
大沼先生のお話、意図を間違ってお聞きしているかも知れませんが、
あくまでも私的ないちブロガーのロマンとお許しください。それほど目か
らウロコの面白いお話でした。特に先生はこれが私の持論だと一般解
説的なお話ではないのがとってもよくあっという間の一時間30分でした。
まだまだ盛沢山の事例(信長公記に記載の関連個所。信長がなろうと
した薬師如来的な神。甲斐、駿河を手に入れまた富士山をも手に
入れた、などなど)のお話がありましたがまた機会を見て紹介します。
この記事の記載については主催者のご了解を頂いております。
今日もご覧くださいましてありがとうございました
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情報提供です
秋季特別展: 信長X信玄
=戦国のうねりの中で=
会場:安土城考古博物館
会期:10月6日~11月11日
詳細は主催者にご確認ください
安土城考古博物館
(拡大します)
折角作った船を琵琶湖に浮かべ、突如解体!この辺りに疑問を感じました。
色々な流れがあった安土城、Kennyさんの歴史の興味が益々膨らみますね。
大船イメージ復元模型、なかなか興味深いですね。
波風の比較的穏やかな琵琶湖でしか通用しないような感じがしますね。
ちょっとバランス的に不安定になりそうな感じを受けますが・・・
講義で触れられたのかどうか、あるいはレジュメに記載なのかどううか、
ご質問がいくつかあります。
Q1 『原本現代訳 信長公記(上)』(ニュートンプレス)を見ると、「長さ30間、横7間の大船に百ちょうのろを立て、船尾と船首に矢倉をこしらえて、がんじょうに作れ」と命じたと記されているだけです。その復元の資料というのは何らかの古文書として記録があるのでしょうか?
Q2 船上の囲いの丸い穴は採光のためですか? あるいは、鉄砲あるいは弓狭間と採光を兼ねたものですか?
Q3 大沼講師は大船を権威誇示のためという目的を重視されているように拝読しました。『信長公記』には、「信長公は、義昭公がお憤りを解くことなく、ついには天下の敵となって、きっと、琵琶湖の瀬田あたりを境界として自分の軍勢をふさがれるであろう。そのときの用意として大船を建造しておけば、五千も三千もの兵を一度にぶつけることができるであろうと考えられた」という目的が明確に記されているのですよね。
この記載人数はどこまで乗船可能なのか、素人にはわかりませんが・・・
たしかに、7月5日に出来上がったあと、「まことに大きくいかめしい大船は、上下すべての人びとの耳や目を奪った」と「大船を作られ候の事」の条の末尾に記されていますので、権力の誇示というか恫喝的意味合い、相手への心理的圧迫作戦の副次的ねらいはあったでしょう。
実際、義昭公の敵対意志を見て、「7月6日、ただちに信長公は大船に乗って、風の吹く日であったが、坂本に向け湖を風をおして渡られた」という軍事行動にでていますね。また、7月26日には、大船で高島攻略もしていますね。これが事実ならばですが、重点は実用的戦略意図があったのでは? 戦術的評価もできるのではないかという気がするのですが。
天正6年(1578)に、信長は九鬼嘉隆に命じて超大型軍船(鉄甲船)を建造させて、実際にそれで成果をあげていますよね。
この時の船の大きさを『公記』は触れていませんが、『多聞院日記』には、「横幅7間、長さ12,3間(14m✕25m余)」と記されているそうです。(『考証織田信長事典』p198)大竹正芳氏イラストの鉄甲船の図も載っています。ここに掲載の模型とほぼ類似の図です。(図の根拠は併記されていませんが・・・)
この記載と図を見ると、琵琶湖の大船は信長の軍事戦略の思考及び試作実験を兼ねていたのでは・・・という気にもなるのです。横幅が同じで長さが半分弱、つまり海での戦闘実践性を確信する事前情報にもなったのではと・・・・
Q4 当時の琵琶湖の港湾って、どの程度の規模の船に対応できたのでしょうか?
天正元年に大船を利用し、義昭公を降し室町幕府を滅亡させ、同年小谷城も落城させてしまえば、近江、京都を手中にしたことになります。つまり、琵琶湖の大船は無用の長物になるので、解体するのが合理的判断のような気がします。
安土城を構想していたら、なおさら不要ですよね。事実、天正4年に安土城に着手ですから。船より今までなかった雄大・華麗な城の方が権威誇示には効果抜群ですからねえ・・・・
安土城の縄張り、興味が尽きません。そして、信長の神問題も同様です。
大沼講師のお話の続きのご紹介を楽しみにしています。
ところで、ちょっと気になった語句のこと:
場内、場外 たぶん、城内、城外でしょうか。
承状させるため この意味は?
(辞書引きましたが、見いだせず・・・
懾伏・慴伏? 承服・承伏? 悄悄かな・・・)
私の場合、自分は今時間を自由に使える身(退職)になってどうやって有意義に過ごそうかとぶらぶらしている時に取りあえずパソコン、メール、ネットを学ぼうからブログ、HPの閲覧を覚え、そこから情報を得て今やっている殆どの事に進めました。
冠句、ポエムさんのブログで初めて知りました。ネットで冠句とは?と調べる事から入りました。今もって句を詠ませて頂く、その句の意味を理解することが難しいです。でもなんとなく句に慣れてきたように思えます。これからも滋賀県にそんな話があったんや、と思って頂ければ幸いです。私も冠句を楽しみにしております。
安土城考古、長浜城歴史両博物館編の「琵琶湖の船が結ぶ絆」が手元にあります。記載があれば機会を見て情報の提供をします。なお、この後9月15日、16日と講座は続きます。当日の先生のご担当は9月9日の「湖底遺跡」で終了しましが先生は当博物館におられます。この機会にぶつけられてみられてはと思います。私も極めて稀にではありますが研究員さんに番外質問をしております(笑)
コメントありがとうございました。
漢字の変換作業だけで 大変
私が 安土城について いつも感じる事 それは・・・
このお城が そのまま現代まで残っていたら
安土の地も そして滋賀県も 今よりずっと
発展していたに違いないと 思うのです
そして安土の町だけでなく日本はどうなっていたんでしょう。Kennyはその辺の事はまだ考えていませんがものすごく気になっています。
でも先に三上山から見える山の方が大事でして、今日は皆さんのお蔭で生駒山が見えて(確認できて)よかったです。 Rieさん、コメントありがとうございます。