中津川以北 日義村
木曽福島から先、原野・宮ノ越・藪原と続く。宮ノ越、藪原は旧中仙道の宿場町である。
平成の合併で宮ノ越までが木曽町になったが、当時の原野、宮ノ越は日義村。振り返るにはこの地名がしっくりくる。
藪原は木曽町の合併に加わらなかった木祖村にある。木祖村は木曽川源流域にあり木曽の祖とされている。
木曽福島・原野間5.5キロの複線化は、3基のトンネルを掘削して上り線を建設、やや遅れて昭和45年に完成した。
宮ノ越・藪原間5.7キロは、村の境界にある山吹トンネルの北側に山吹山信号所を設置して工事が進められた。
同信号所・藪原間は41年、宮ノ越・同信号所間は43年に完成、各々1基のトンネルを掘削して下り線を建設した。
中間の原野・宮ノ越間2.8キロは、十二兼から倉本間と同様、複線化されず単線のまま今日に至っている。
明治時代、木曽福島に伸延した西線と宮ノ越が終点の東線を接続して中央本線が全通するまで残されていた区間である。
43年3月19日、原野・宮ノ越間で撮影。鳥居峠の奈良井側に向かう前、原野で下車して宮ノ腰まで歩いた。
なお、この時期の貨物ダイヤの記録がなく一部の列車番号及び運行状況が不明である。
名古屋5:42発の長野行始発列車で原野に9:54到着。最初の場所は不明確であるが、駅の木曽福島寄りのようである。
10時過ぎ、上り貨物が惰行で通過した。当時、次位の機関車は木曽福島機関区のデフ付C12の回送と思っていた。
改めて見てみると、どこから来たのかC11であった。
重油併燃装置、集煙装置付D51-249[中]牽引の上り貨物
1968.3 原野・木曽福島
原野に戻ると10:42発の上り気動車が停車していた。この列車は急行用車両で運用されていた。
キハ58系2連 上り塩尻発名古屋行840D
1968.3 原野駅
1キロ弱歩くと前方に宮ノ越宿に続く平野が展望できた。山が迫っていないので開放的であった。
11時になる頃、日溜まりの中を下りDC急行がやってきた。宮ノ越で交換して次に上り急行がくる。
キハ58系下り801D急行第1"しなの"
キハ58系上り804D急行第2"しなの"
この区間の上り勾配は13‰程度であるが、煙が一番期待できそうな場所を探した。
原野から1.5キロを超えた辺りのS字カーブで構える。本命の下り貨物は重連、手前まで待って撮影することにした。
11時半、曲線の先にD51が姿を見せた。投炭して絶好の黒煙を吐いているが、どこまで持つかが気がかりであった。
D51-119[木]、D51-793[木]の重連 下り貨物667レ
予定した位置で引き付けて撮ったが、本務機の煙に力がなく重連の迫力を欠いていた。
この区間は短いので余裕がある。ゆっくり歩いて正午前に宮ノ越付近に来た。あちらこちらの日陰に残雪が見られた。
キハ17の2連、下り明科行841D 原野発は11:51
12時20分頃、キハ91系の急行第2"しなの"が宮ノ越宿の街並みを見下ろして通過していった。
この日は大型タイフォンケースのキハ91ー1が先頭。91系は何度も撮ったが、先行試作車の先頭は初めてであった。
キハ91系下り803D急行第2"しなの"
1968.3 原野・宮ノ越
下り急行と交換待ちしていた上り貨物列車が宮ノ越を発車。
D51-787[木]牽引の上り貨物
不思議なことに、最後部に先程の下り貨物667レの重連の先頭であった119号機を連結していた。
宮ノ越、藪原のどちらかで解放され、回送のようであるが、運用は不明。トラブルが生じたのかもしれない。
D51-119[木]の回送
20分程経過した12時45分頃、木曽福島で上り貨物と交換した下り貨物列車が宮ノ越に到着した。
半戦時型カマボコドームD51-902[木]牽引の下り貨物 宮ノ越構内に進入
機関助士が石炭掻き寄せ作業
下り貨物の停車中、D51とDD51の重連で宮ノ越12:55発上り旅客列車が到着した。D51は回送と思われる。
この列車と交換して発車するDD51牽引の12:54発下り松本行827レに乗って奈良井に向かった。
D51-326[木]先頭にDD51重連の上り長野発名古屋行828レ
1968.3 宮ノ越駅