「今、トルコのカッパドキアの3教父の古典に焦点を当て、この中のリーダーの経済思想をまとめてみたいと思っている。もう80歳の私が生きている間に少しでも私の歯跡が付けられれば・・・」
・・・・君自身、宇宙人的な感じだね。中国にもよく似た思想があるね?
「そう、経世済民というね。経済という言葉の派生源だ。これは先王の志を体して“世を治め、民を救う”という理念の実生活の方法論、すなわちオイコノミアだと思う。」
・・・・経済学は「人間の生き方」と関係づけて捉えれば、単に利益社会の道具に堕落するのはいけない。そういうことだね。
「産業革命後の経済学はねじ曲がった。人間が社会を作って来た姿、すなわち人々が交わること、その人達の在り方、アソシエーションから発せられるものが風かしている。だから経済学は学問の態をなさない。私の寺子屋に来て“現代経済”を勉強しても何の実利もないわけだ。」
・・・・町には金儲けの風潮、利殖講座は花さかり
「株式講座とか電子マネー講座なら世間に幾らもあるよ。寺子屋は参加費200円。経営はボランティアでしか成り立たない。」
・・・・経済学の未来はいかが?
「地球ができてから今日までを1年365日とすれば、人間が今のような社会を作ったのは0.2秒前に過ぎぬ。世代数からすれば300世代ぐらいかな?このうち、自然、労働、社会を意識して経済を論じ始めたのは多分3000年前ぐらいだし、資本主義が育てた近代経済学に至っては200年そこそこ。まだまだひよっ子、人類史的に見てもこれからの学問だ」
・・・・現代経済学では、環境を壊し、人心を荒廃させた?そういえるかな。
「今の経済学はエコノミィとマネーメーキングを混同している。環境は二の次。人権も二の次。これに従えば環境破壊は必然だ、過労死が当然視される。学問の神様アリストテレスは、(人の)幸福は余暇のうちにある。それに人生の充実が加われば人間の持ちうる完全な幸福・・が得られる。だから経済学はその人生の充実をいかに得るかを追求する。寺子屋の目的は、余暇の大切さ意義を知ることにおいている。経済学をその立場(オイコノミァ)から時代回帰的に見直すこと、これが大変だが面白いよ。」
・・・・どんな人が集まっているのかな?勉強の範囲が広すぎる?
「普通の人。世は様々なれど、耕地に種をまくは美しい仕事(ルオー)。ほとんど近所の人とのつきあい。よくわかることはどの人間は本来極めて真面目なんだ。真理に頭を下げるという意味でね。サラリーマン、主婦。高遠な道を尋ねるのではなく、ねじ曲げようのない優しい言葉を厳選して目の前に起こっていることを教材にし意見を交わす。話題はいつも生活に根ざす。故に生き生きしている。対象期間の範囲は宇宙の創世から今日まで。」
後記
「悪は既に蒔かれた。しかしその摘み取りはまだである」(旧約聖書エズラ記)
これは彼の著したテキストの冒頭の言葉です。この友人は、私とは60年来の友人。サラリーマンをやめて2003年、月二回のペースで自称寺子屋を開いて哲学?経済学?を勉強中。すごいのは、リタイア後に某宗教大学に入学、神学を学び、それを済ますと今度は72歳で国立大経済学博士課程に入学。
私は、彼の無限ともいえる知識欲に驚嘆してきました。当時の手紙によれば、経済学を発生の根本から学びたいとのことでした。文献を読むために?若いうちから各国語を勉強をしてきたのを思い出しました。
その頃、彼は「貧しい者の立場で経済学を考える」べきと、普通の経済学を批判していたことが思い出されました。貧しい家庭に育った私も理屈抜きに彼に共感していました。
彼によるとふとしたことでイエス・キリストの山の上の説教「幸いなるかな」に接した。福音「神の国」を導きとしてキリスト経済学(オイコノミァ)を現代の経済学に架橋してこれを是正できないかとなったようです。
その着想は奇抜、その志はある意味壮大です。しかしこれはドンキホーテか、肯定的に言えば愚公移山の喩えのように人々は理解しづらいでしょう。想定どおり彼の研究はアカデミズムに受け容れられるものではありませんでした。
しかしその彼が時々送ってくれる手紙に重い言葉があり、私の凡庸なアタマにもビンビン響いてきました。常々私自身も現代の経済学は、人間の真の幸福とは何か、どうしてそれを達成するかという目的がかき消され、お金(=交換価値)の動きだけを見つめ結果的に拝金主義を育てています。浅薄、空回りしているつまらないもののように思え、勉強の対象にはできません。
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