テレビはスカパー以外あまり見ないのだが、昨日、たまたま地上波にチャンネルを合わせたら、英女性殺人容疑者逮捕のニュースだった。 酒井ノリピーの時も朝から晩まですごかったらしいけれど、繰り返しテレビで放送されるだけで、日本中で知らない人はいなくなるんじゃないかと思うほどの、テレビの影響力だ。
一方で「外国人参政権」の話は、テレビがほとんど言わないものだから、「国の主権を変更する」という大問題のはずなのに、国民にほとんど知られていない。NHKはこの問題についての国会中継(5日)は放送しなかったそうだ。
テレビの影響力はすごい。恐ろしい。日本の命運を左右しているのは政治家や政党ではなく、テレビ(NHKと日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビなど民放キー局)じゃないのか、と思うほどに。 放送局の中枢にいる人々の意図と、番組を制作している人々の意図、テレビに出演している有名人とやら芸能人とやらの言動や論調が、世の中の動向を動かし、結果的に社会に大きな影響力を及ぼしている。「多数を掌握したもの」が社会を動かすという「多数決」は、民主主義の「良い点」であるが、「弱点」でもある。
数十年前、テレビ(マスメディア)業界の勢いが拡大する中で、ともに、広告業界もスポットライトを浴びる業界だった。商品を売るという「意図・目的」のために、「人の目を引きつける、人の心を掴む」ものを制作する広告の仕事も脚光を浴びていた。直接的間接的に、明に暗に、人心に訴える物をつくる。 そして、マスメディアとともに、「広告」はその効果を巨大化させた。
しかしその頃から今まで、よく考えてみれば、例えば広告主(クライアント)が、「放送局」そのものだった場合はどうなるかということまでは、考えが至らなかった。 いってみれば、「クライアントの利益を謀る広告作り」が、「放送局の利益を謀る放送作り」にまで拡大された時、どうなるか?ということだ。
メディアの巨大な情報網(たとえば関東では視聴率1%は40万人にあたるらしい)で、これが行使された時、社会にどれほどの影響を(悪影響も)与えることになるかということに、誰も正確に気がついていなかったのかもしれない。
マスメディアは、巨大な手段(権力)を、クライアントのためだけでなく、自己(放送局)のために行使し始めた。 「マス・コミュニケーション=巨大な情報網」を掌握する立場(放送業界)と、「広告の手法」が結びつくことの危険について、この「第四の権力」の暴走について、社会も政治も国民もあまりに無防備だったということなのか。