泣き止まない妹をおぶって泣いたのは
いくつのときだ
母が死んだらと思って泣いたのは
いくつのときだ
母がダンプに轢かれて左脚を失くしたのは
十歳のときだ
父と母が金のことで喧嘩をすれば父を憎んだのは
十代のころだ
母の電話に目を覚ます
しゃがれた声で工場が焼けちゃったと言ったのは
平成三年の五月だった
十八歳で家を出て二十六歳になっていた
なんとも言われぬ私は恋人ではない
女を誘ってダムを見に行った
並んで座って黙ったまま動かない水面を見ていた
父の工場を手伝うようになって
父が死んだらと不安でいっぱいになったのは
三十歳のころだ
まもなく母が工場の金を持ち逃げした
私の婚約者から三百万円を借りていたことも
知らなかった
父と二人でせっせせっせと働いて金を返した
一年に三百六十日働いた年もあるんだよ
ほとぼりが覚めたころ母は舞い戻ってくる
いつもおんなじ繰り返しだった
銀行も取引先も呆れたがそのたびに父は許した
東日本大震災が起きて間もなく母は死んだ
戸籍を取り寄せてみると金婚式を祝うべきその日に
逝ったのであった
父と妹をクルマに乗せて病院に向かっていると
あまり飛ばすな と
父は言った そのひと言を憶えている
父は今年八十歳になった
妹は赤飯を炊き私は妹に誘われて
父の誕生日を祝った
ひと月前父はなんにも食べなくなった
病院に運ぶと
医師は今夜が山かと言った
登るのか下るのか知れない山のいくつか
あたかも新型コロナウイルス禍の世界を
代表するかの如く
登るのか下るのかわからない山のいくつか
なるべく早く来られますか
いよいよです
早い朝に電話を受けてから
丸一日父に付き添うこととなった
往生際が悪いとはこのことと父は教えた
大雨の一日が晴れ渡る空となった日の暮れに
初めて人が死ぬ瞬間をみた
眠り続けたまま死んでいった父は
まるで眠るようにと言う他なく死んでいった
やさしくて不思議な人だった