先日行った高岡の瑞龍寺でのガイドさんの話では、
「この瑞龍寺は金沢にまさかの事があった時の後衛の城の役割としても考えられていました。」なんて言っていた。
金沢の寺町に通称、忍者寺と呼ばれる妙立寺という寺がある。
これも金沢城への敵を抑える出城としての役割を持っていたという。
防御の点では、
なんといっても城を中心に惣構というものがあって、
堀と土居の壁が城を中心に二重で囲っていて、その距離なんと9キロ、高さは最大9メートルあったといわれている。
そしてオイラが気になった言葉、
前田利家がいよいよ死ぬ間際に後を継ぐ利長に言った遺言。
兵の8,000は大坂に詰めさせ、残りの8,000は金沢に置き、大坂にいざこざが生じ秀頼様へ謀叛する者がでたら、国もとの8,000の兵を連れて上洛し、敵を蹴散らせ!と。
だが結局、利長は家康に屈した
母である松を江戸に人質として出すことになる。
あれほど防御にも力を入れていたのに・・・。
歴史にIF(もし)は無意味と言われるが・・・、
利長が違う決断をしたら・・・、
実際どうだったんだろう?
敗れていたか?
いや、オイラはそうは思わない。
いろいろ想定されるけど、結局引き分けだったような気もする。
徳川以外の三大老(宇喜多、上杉、小早川)は完全に利長についただろうし、
秀吉に世話になった武将の福島、加藤なども家康方につかなかっただろう。
そうなれば、その後の日本は大きく変わっただろうけど。
誰か、歴史学者の人で詳しく検証してもらいたいもんである。
【ヒゲ親父】
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「この瑞龍寺は金沢にまさかの事があった時の後衛の城の役割としても考えられていました。」なんて言っていた。
金沢の寺町に通称、忍者寺と呼ばれる妙立寺という寺がある。
これも金沢城への敵を抑える出城としての役割を持っていたという。
防御の点では、
なんといっても城を中心に惣構というものがあって、
堀と土居の壁が城を中心に二重で囲っていて、その距離なんと9キロ、高さは最大9メートルあったといわれている。
そしてオイラが気になった言葉、
前田利家がいよいよ死ぬ間際に後を継ぐ利長に言った遺言。
兵の8,000は大坂に詰めさせ、残りの8,000は金沢に置き、大坂にいざこざが生じ秀頼様へ謀叛する者がでたら、国もとの8,000の兵を連れて上洛し、敵を蹴散らせ!と。
だが結局、利長は家康に屈した
母である松を江戸に人質として出すことになる。
あれほど防御にも力を入れていたのに・・・。
歴史にIF(もし)は無意味と言われるが・・・、
利長が違う決断をしたら・・・、
実際どうだったんだろう?
敗れていたか?
いや、オイラはそうは思わない。
いろいろ想定されるけど、結局引き分けだったような気もする。
徳川以外の三大老(宇喜多、上杉、小早川)は完全に利長についただろうし、
秀吉に世話になった武将の福島、加藤なども家康方につかなかっただろう。
そうなれば、その後の日本は大きく変わっただろうけど。
誰か、歴史学者の人で詳しく検証してもらいたいもんである。
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