てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

ブラオイラ#288(ジブリと大雨洪水警報編)

2018年08月16日 21時14分17秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
小松から帰ったオイラに
カミさんがどこか連れてけと・・

そこでオイラは、
「県立美術館でやってる広重展の無料券あるぞ」と言うと、

「え~おもしろくな~い、それより21美のジブリ行こう」とカミさん、

ということで、娘も加わって行ってまいりました。

が!

ただいま金沢は大雨洪水警報中でございまして、
大変な状況であります。


外出を控えた人が多いから来館数も少ないかなと思っていたが、
着いてみたら驚いた

むっちゃ人並んどるやんけ!

館内で大行列となっています。


でも、こちらの方はそれほどでもありませんでした。

スタジオジブリ 鈴木敏夫「言葉の魔法展」です。
金澤と書くところがジブリっぽいです。

基本撮影禁止ですが、
ここはOKでした。


宮崎駿作品の中の言葉が力強く浮き出てます。

飛べない豚はただの豚だ(紅の豚)
ここで働かせて下さい。(千と千尋の神隠し)


バルス!(天空の城ラピュタ)


夢だけど夢じゃなかった。(となりのトトロ)


生きろ、そなたは美しい。(もののけ姫)



そして、ここも撮影OK


千と千尋に出てくる油屋です。


昼から夜へ


いいね。


ふむふむ


ふふ



さて見終わったけど、

外の様子は・・・・・
ざーざー降りやんけ・・・


さすがにこの大雨の中、カミさんと娘は県立美術館まで行けないので、
引き続き21世紀美術館で観賞してもらい、オイラだけ無料券を持って県立美術館へ向かうことにした。

歩きである。

広坂交差点

バシャー ひゃあ~

どひゃ~ 坂道が川のようだ。


まじかい~!!


排水溝の水もジェット噴射のよう。


なんとか着いたぞ。


石川県立美術館です。


これこれ

無料券で入ります

歌川広重(1797~1858)は、葛飾北斎とともに風景版画家として幕末浮世絵を支えました。37歳頃に刊行した「東海道五拾三次之内」が大人気となりその後は生涯を通じて風景版画を描き続けました。居ながらにして旅の気分を味わうことのできる街道絵、各地の名所を描く名所絵と、彼の描き出す風景は多岐にわたる。

(作品撮影禁止)

まぁよかったです・・・。


さてここを出て、カミさん達が待つ21世紀美術館へ向おう。



ここもすごい流れだ。


水音も大きく迫力はあったけど。


鈴木大拙館、雨の中でも雰囲気はいい。


それにしても大雨で大変な午後でした。
【ヒゲ親父】
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラオイラ#287(小松戦争遺構編)

2018年08月16日 18時34分48秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
昨日8月15日は73回目の終戦記念日だった。
しかも平成最後の終戦記念日でもある。

昭和という時代が遠くなると誰かが言ったが、昭和といえばやはり戦争のイメージが強い。
多くの犠牲者を出した悲惨な戦争でした。


以前記事で石川県はなぜ空襲が無かったのだろうと投稿したが、
最近、米軍による金沢市街地空撮写真なるものが発見され、
他の都市同様に空襲計画があったことが明らかとなる。

石川県内にも戦争遺構なるものわずかだがあって特に海軍航空基地があった小松に残っている。

今日午前中はなんとか天気が持ちそうなので小松の戦争遺構を撮ってこよう。



小松到着。


まずは航空自衛隊小松基地へ


戦時中もここは小松海軍航空基地と呼ばれ飛行場だった。

最初の遺構は、フェンスすぐ向こう側にあった。

掩体壕(えんたいごう)といって、装備や物資、人員などを敵の攻撃から守るための施設である。
通常はコンクリート製で、少ない資材で大きな強度が得られるかまぼこ型をしている。

道路からすぐ側なので簡単に見ることができる。


この付近にもう一か所あるのだが・・


向ってみよう


全然平気さ


こんなのへっちゃら


おいおい、イテっ


あっあれか!


あった!やっぱりフェンス内にそれはありました。


でも足場の草が痛くて
退散~



次は、空港近くの郵便局


その後ろにそれはある。


多くの方が通りから見てると思うが、この謎の半壊構造物。


その形は、まさにエジプトにあるスフィンクスだ。


ね。

拝借

これは自力発電所施設跡である。


頑丈なコンクリ建造物内に大型発電機が置かれ、攻撃による公共電気径路が破壊されたとしても、航空基地に必要な電気をここで用意する為だったのでしょう。



さて次の場所は、
住宅街にあります。


これもコンクリの構造物ですが、


これは施設倉庫だと思われます。


中を覗いてみましょう。


失礼しま~す。


当時は何を保管したのでしょうかね、


空からの攻撃で守らねばならない物だから、相当重要な物と思われますが。

さて次行きましょう。


小松市役所近くにある「空とこども絵本館」


この建物、かっては小松防空監視哨でした。
その名の通り敵の航空機をいち早く監視するのが目的です。

あそこに昇って・・・


当時我が国のレーダー設備は弱小なので、こういう人力だよりだったということです。
こりゃ負けるわけだ。

さて最後に行くのは、粟津駅です。


小松航空基地へ物資の輸送等を目的として粟津駅から小松航空基地へ鉄道が敷設された。

その引込線の一部と思われるのがこの線路です。


グーグルマップで見ると、


その痕跡がわかります。


短い距離で3キロ程度です。



左に逸れるレールは、


今は切れてしまっているが、


当時は延びていたのである。
どん!


今どきめずらしい未舗装道路。


ここにも線路は走っていた。


串茶屋付近を通過して、


橋が見えてきた、おや!


側に置いてあるのは当時の枕木か!


かっては鉄道用の橋でした。


ここで道路は、


右の道と合流するけど、


線路は真っ直ぐに延びていた。


おや何かある。


防衛※(埋まってる文字はおそらく庁)

管理は防衛庁に引き継がれた。

線路があったという痕跡は何となく雰囲気でわかる。


だって、


オイラは旧金名線も調べたし、旧能美線だってブラったからね。


こんな感じであったんだよ。


短いけど、当時の鉄橋の欄干だ。


そして線路は小松航空基地へと入っていったんだろう。


戦争遺構は、できるだけ保存した方がいいです。
できれば傍らに説明板を立てて、多くの人に訪れて知ってもらうことで、
平和の一助になるのではないだろうか。
【ヒゲ親父】
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする