「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

ストップウォッチと伝統

2008-07-25 04:41:45 | その他
現勤務校では3月の終わりに何人かの卒業生を招き、1・2年生に向けて自らの受験体験について話をしてもらっている。必死の思いで何かをやり遂げたという確固たるものに裏付けされているので、とてもインパクトがある良い話が聞ける。しかし、我々教える側が感じる以上に当の生徒たちには大きなエールになっているのだという話である。

昨日の放課後にある生徒が質問に来た。ひととおり質問に答えた後で勉強法などについて話しているときに、胸にストップウォッチを下げているのを発見。

昨今、英語の教員でストップウォッチを携帯している人は結構多いと思うが、生徒でこれを持ち歩いているものはそう多くないだろう。しかしながら、センター型の問題などでは時間配分や素早い作業が決定的に重要なのでとても良い心がけだと言える。

ところが、聞いてみるとストップウォッチの使い方が私の考えていたのとちょっと違うのだ。曰く、自習するたびに計時し、1日の終わりにその日の総学習時間を記録しているのだとか。毎日学習時間が目に見えて積もっていくのが励みになるのだ。クラスには同じことを実践している生徒が結構いるらしい。

実は、この方法は件の講演会で学習時間を確保するためのアドバイスとして、卒業生が後輩に紹介したものである。

よく我々は何時間勉強したかが重要なのではなくて、どんな勉強をしたかが重要なのだと言う。質の高い1時間の勉強は非効率な3時間の勉強よりも価値があると言ったりする。

しかし、現実には最初から質の高い勉強などできるものではない。沢山の量をこなすから少しずつ質の高い勉強の方法が分かってくるのだ。つまり、「量が質に変わる」のである。これも卒業生講演会の中で紹介された言葉である。

生徒たちはこういった先輩からのメッセージを我々が思う以上に敏感かつ真摯に受け止めそれを活かしている。そしてその中からまた次の後輩たちへと熱いメッセージを残すものが出てくるのだろう。校風とか伝統とかいうものはこんなところから生まれてくるのだ。

我々はともすれば自分が目の前の生徒に対し何ができるか、自分が指導することにより生徒に何を与えられるのかに囚われ、生徒が自身で高めあい伸びあう力を過小評価しているのではないか。教師が本当になすべき仕事(の少なくとも一つ)は、場面を作り仕掛けを敷いておいて、生徒が自ら伸びていく様を温かく見守っていくことなのだろうと感じる出来事であった。