ベネッセ社の高校向け進路情報誌VIEW21の記事が目を引いた。『「読む」ことの意味に気付き、本当の授業を知った』静岡は磐田南高校の渥美健先生による記事である。先生のご担当は国語だが、記事の内容には共感するところが大きかった。記事は以下のサイトでも読むことができる。
http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2008/09/01jidai_01.html
「我々が身に付けさせたい国語の力は、授業の内容を覚えて、定期テストで点数を取る力ではない。初めて見た文章を自分の力で読み取る力だ、と。確かにそれまでの私は、定期テストはできても模試になると点数が取れない生徒をどう指導すればよいか、答えを見つけることができていませんでした。生徒の中には「国語は勉強をしても学力は伸びない」と諦めている者もいました。今思えば当然です。それまでの私の授業は、教科書や指導書に頼ったもので、生徒に考えさせるものではなかったのですから。寺田先生と出会ってから、文章を通して人間を読み、考えるという、いわば生きるために必要な力を養う時間が、国語の授業だと考えるようになったのです。」
「定期テストでも応用問題を出題しました。例えば、『徒然草』なら授業とは別の章段を出題するわけです。授業でもテストでも、とにかく生徒に考えさせたのです。1年生の時から一緒に鍛えた学年は、記述模試で県で2番の成績になりました。生徒も手応えを感じていたでしょう。文章に向き合う機会を与えれば、こんなに読めるのか…本当に驚きでした。」
読むという行為はけっして受動的な活動ではなく、能動的で想像的な活動であるはずだ。英文をデコードするような英文和訳が好ましくないのは、文に積極的に関わっていくという読解の本質的な部分が排除されているからだろう。
テキストを深く掘り下げ理解するための仕掛けを授業に組み込めば、知的好奇心が刺激され生徒の意欲関心は深まる。ドリルや暗記に必要以上の力を注ぎ込まなくても自然と実力はついてくるのではないか。
言葉の力をつけるという意味では国語も英語も本質的に同じはずである。読解力の育成に限らず国語教育の優れた実践例から学ぶ余地は十分にある。
http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2008/09/01jidai_01.html
「我々が身に付けさせたい国語の力は、授業の内容を覚えて、定期テストで点数を取る力ではない。初めて見た文章を自分の力で読み取る力だ、と。確かにそれまでの私は、定期テストはできても模試になると点数が取れない生徒をどう指導すればよいか、答えを見つけることができていませんでした。生徒の中には「国語は勉強をしても学力は伸びない」と諦めている者もいました。今思えば当然です。それまでの私の授業は、教科書や指導書に頼ったもので、生徒に考えさせるものではなかったのですから。寺田先生と出会ってから、文章を通して人間を読み、考えるという、いわば生きるために必要な力を養う時間が、国語の授業だと考えるようになったのです。」
「定期テストでも応用問題を出題しました。例えば、『徒然草』なら授業とは別の章段を出題するわけです。授業でもテストでも、とにかく生徒に考えさせたのです。1年生の時から一緒に鍛えた学年は、記述模試で県で2番の成績になりました。生徒も手応えを感じていたでしょう。文章に向き合う機会を与えれば、こんなに読めるのか…本当に驚きでした。」
読むという行為はけっして受動的な活動ではなく、能動的で想像的な活動であるはずだ。英文をデコードするような英文和訳が好ましくないのは、文に積極的に関わっていくという読解の本質的な部分が排除されているからだろう。
テキストを深く掘り下げ理解するための仕掛けを授業に組み込めば、知的好奇心が刺激され生徒の意欲関心は深まる。ドリルや暗記に必要以上の力を注ぎ込まなくても自然と実力はついてくるのではないか。
言葉の力をつけるという意味では国語も英語も本質的に同じはずである。読解力の育成に限らず国語教育の優れた実践例から学ぶ余地は十分にある。