「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

Yin e Yang 木村達哉先生の英語教師塾in 神戸 (その5)

2008-09-13 10:34:01 | 研修
夏休みの間に遅まきながらDeath Noteのアニメ版を見た。評判通りの良いできで、主人公の月とそのライバルのLとの駆け引きによってストーリーはテンポ良く進む。

この物語を興味深くしているのは、キャラクターの設定である。主人公とライバルが登場する場合、主人公=正義・明・美、ライバル=悪・暗・醜といった場合が多いだろう。もちろんこの範疇からでるものは他にもあるが、Death Noteの場合、その入れ替わりようが絶妙で、独特のバランスを作っている。

主人公は、見た目がよく爽やかな人物である。行い自体は悪であるが、根底に社会を良くしたいという思いがある。一方、ライバルは暗く疑い深い性格で主人公と好対照である。容姿が醜悪ではないところがミソだろう。行いは善であるが爽やかさは微塵もない。二人には頭がよい、運動能力が高い、若い男性であるといった共通点も多くある。

視聴者は二人の対照性、共通性の向こうに光と陰、あるいは表と裏を感じる。しかし、二人にはそれぞれに光や表、陰や裏という言葉が持つコノテーションにそぐわない面があり、どちらが光でどちらが陰なのか分からなくなる。そして、その二人をつなぐのが「死神」である。「死神」という言葉自体がオキシモロン的ではないか。

ここまで言っておいて英語教育の話。

竹岡先生は平成3年を日本の英語教育の歴史におけるターニングポイントだったといわれた。確かに、その時期以降、英語教育は紆余曲折を経ながら少しずつもと居た位置から離れていっている。

その動きの中で一つのシンボル的な存在が田尻先生だろうし、同様のスタンスから英語教育を発展させようという立場の方は、各英語教育関連学会や達セミでご活躍の皆さんなどたくさんいらっしゃる。

一方、従来の枠組みを一応は踏襲しながら、授業・指導法の改善を訴えられているのが木村先生であり、竹岡先生のような方々だと思う。

今や英語教員の研修といえば、前者の範疇に入るものがほとんどであり、後者の立場の方からお話を聞ける機会はそれほど多くはない。本当にそれでよいのだろうか。

英語教育から、特に高校における英語教育の現場から、説明を通しての英文解釈・文法理解を排除しようという考えは理想論ではなくナンセンスだ。現場にいるものであれば誰でも、本当に必要なのはバランス感覚だというのはよく分かっているはずである。

光と陰、どちらがどちらなのか判断しかねるのは、Death Noteの登場人物と同様だ。しかし、見栄えの良い指導技術をひけらかすだけでは本物の学力はつきそうにない。